「死」とはなにか イェール大学で23年連続の人気講義 シェリー・ケーガン 文響社 まとめ2

概要

 前半では死はなぜ悪いのかという疑問への答えとして略奪説=死んでしまうとそれ以降に経験できたことができなくなるため悪いと考えるという考えが示された。

 

半では、略奪説を採用したときに、死に関わること(不死、自殺)や人生の価値といったものをどう考えるかについて書かれている。

 死はすべての人に不平等ではあるが、必ず訪れるもの。生きていることそのものにどれだけの価値があるかはひとそれぞれだが、人生のプラスとマイナスを足しわせたとき、全ての人がマイナスになるわけでも、プラスになるわけでもないと筆者は考えている。(要はケースバイケース)

 自殺についても多くの自殺は人生がトータルでマイナスになったからではなく、過去と比較し悪くなっただけの場合が多い。

 自ら進んで同意し、正当な理由があり、理性的で決断を下すことのできる人である場合だけ自殺(安楽死)を考えるべきで理性的な判断を下せないような一人の状態で決断しないことが重要。

 

不死

 死が略奪説によって悪いのであれば、不死が望ましいこととなるのかという疑問が浮かぶ
 略奪説は人生の良いことを経験できなくなることが悪いとするため、以後の人生に良い部分がなければ不死が良いとはならない。
 永遠にものごとに飽きずに生きていくのは難しいのは、簡単に想像できることであるし、脳を永遠に快感を感じるような手術を受けることも大きな抵抗があることが普通。
 やがて死ぬ事は悪くないが、今の私たちが死ぬような年齢で死ぬのは悪い事というのが真実に近い。

人生の価値

 良い悪いを分類する際には、間接的と本質的なものに分けられる。快感や痛みは本質的なもので、本質的な物を得る手段になることが間接的な物になる。

快楽主義

 本質的な唯一の良いものは快感で、唯一の悪いものが痛みとするのが快楽主義。快楽主義では快楽を全て足し、痛みを全て引いてプラスであれば良い人生、マイナスであれば悪い人生となる。
 しかし人生は快感を得られれば良いかには疑問も残る。脳を快感を感じるようにしただけの人生が良いとも思えない。

価値ある器説

 快楽主義が正しいかはともかく、人生の価値をその中身だけで考えているが、実際には生きていること自体に価値があるとするのが価値ある器説。
 どれほどの価値があるとするかはそれぞれだが、筆者は一定の価値を持つが、中身によっては全体でマイナスになることもあると考えている。どんなに中身がマイナスでも器の持つ価値のプラスを下回る事はないと考えることもある。

死の不可避性

 死が不可避であることは死の悪さにどう関係するのか。


 死が必然であり、避けられないことが死の悪さを大きくするという考えがある一方で、必然であれば落胆が少なくなるという考えもある。また、死は自分だけでなくすべての人に共通であるため幾分は慰めになるとも考えられる。

寿命の不平等

 平均寿命よりも短い人も長い人もいる。全体では差異は生じないが、人は平均より多くもらう喜びよりも少なくもらえない悲しみが、上回る傾向にある。平均より長く生きる人の利益を短い人の不利益が上回るのかもしれない。

いつ死ぬかわからない

 予測不可能性も死の悪さを大きくする。いつ死ぬかわからない事は適切な計画を立てることを難しくする。

人生の形

 人生の初めは良いことが少ないが段々よくなる場合と初めは良いが段々悪くなる場合、良いことの総量が同じでも前者の方を好む傾向にある。

突発的な死

 死は偏在しており、状況によって確率は違えど、いかなる場合でも死ぬ可能性はある。これも死の悪さを大きくしそうだが、スリルを楽しむこともあるため、一概には言えない。

死に直面しながら生きる

 死に対する立場には受け入れて対応するか、無視するかがあるが、無視する事はどこか間違っている気がする。これは我々が死に関する事実が生き方に影響を与えているはずという考えに惹かれるから。

事実は行動をどう開けるのか

 ある事実が我々の行動を変えるとき、原因となって行動を変える場合と行動を変える根拠になる場合がある。原因となる場合は無視しても問題なく、根拠であれば無視すべきではない。
 死についてはどちらともなりうるため、筆者は考える時と考えない時を持つという穏健な態度をとるとしている。

死に対する恐れ

 ある感情を抱くには特定の条件を満たすことが必要がある。恐れを抱くのに必要な条件はなにか。それが悪い物である、身に降りかかる可能性がそれなりにある、不確実性を持つことが恐れを抱く際に必要な条件となる。
 死そのものは死後の存在がない立場からすると恐れはあまり正しい感情反応ではなく、怒り、悲しみでもなく、感謝なのかもしれない。

死が行動に与える影響

 人生はなにもしないには長すぎるし、何かをするには短すぎる。そのため死は最も追究する価値のある事は何かを判断する必要性を生み出しているともいえる

自殺

 自殺についての疑問は二つ。
自殺をするのが理にかなっている状況とはどんな状況か?
もし自殺をするのが適切であるなら、どんな状況か?

合理性と道徳性

 自殺を語る際にはどうしても感情論になりがちだが、まずは合理性と道徳性の問題を区別する必要がある。
 合理性の見地からは自殺を考えている人になにが得でなにが損なのかだけに注意を向けていく。

自殺が合理的な判断になる状況

 一般的に合理的な判断は二つの状況を比較する事で行う。
 人生で起こるプラスとマイナスを合計しマイナスが上回れば死んだほうがましといえる(価値ある器説を受け入れる場合は器のプラスの価値も足す必要がある)
 全ての人がプラスもしくはマイナスとする考えもあるが、筆者は悲観でも楽観でもない中庸、つまり各人の境遇によってはマイナスが上回ることがあると考える。

 あるときから、人生の良さが失われ、もうプラスになることがなければその時が自殺をすべき点となる。末期の病気などで、この状態となることが考えられる。病気の場合、この議論は安楽死の問題でもある。
 自殺が合理的となるケースは確かにある。しかし以前とくらべ状況が悪くなっただけでは、死んだ方がましといえるわけではない。
 多くの自殺は本質的にマイナスしかない状況ではなく、以前と比べ悪くなったことで起こることが多い。

自殺の決断

 そもそも自殺を考えるような状況では、痛みや苦しみ、精神的苦痛で判断ができないため、自殺が合理的になることはないとする主張もある。 
 しかし、筆者は慌てて決める事はいけないが、よくかんがえ、周囲と話し合い下した決断であれば信頼に値すると考える。

自殺と道徳性

 自殺が合理的である事は確かにある。しかし、道徳的にはどういうべきか。

神の意思に背く
 自殺が神の意思に背くから不道徳とする主張もあるが、医師が病気の人を見て病気が神の意思だとして治療しないことなどありえない。

 命に感謝すべきという主張も自殺が道徳的にふさわしくないといえるものではない。

 同意があれば許されると考えることもできるが、その同意の内容も問題になる。自ら進んで同意し、正当な理由がり、理性的で決断を下すことのできる人である必要がある。

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