「現代優生学」の脅威 池田清彦 集英社インターナショナルe新書 要約

タブー化された優生学が形を変え、再び注目されている

 優秀な人間の血統のみを次世代に伝え、劣ったものたちの血統は断絶したり、有益な人間になるように改造する。そうすれば優れた者たちによる高度な社会が実現できる。

 こうした考えは優生学とよばれ、ナチスの政策に大きな影響を与えたことで知られている。障害者の断種、ユダヤ人の大量殺りくにつながったこともあり、優生学を主張することはタブー化している。

 しかし、優生学的な考えは日本におけるハンセン病患者隔離政策などでも見られてきた。遺伝子学の発展で遺伝子と障害の関係が明らかになったことで現代優生学ともいうべき主張がなされ、2016年に日本で起きた知的障害者の殺傷事件が起きてしまった。

 現代優生学は人々を生産性の高低で分け、生産性の低い人間を直接淘汰する方向に向かっている。

 根絶の難しい優生学を内側から不活性化させるためには、優生学の実態を知ることが必要。

必要でない人のコストを社会で担うべきないという考えが広がっている

 知的障害者の殺傷事件の犯人である植松被告は障害者を抹殺することは国家のためであり、世界平和を実現する行為であると考えていた。

 現代優生学の特徴は、社会に必要でない人間の生存コストを社会全体で担うべきでないという考えに見られる。

優生学には消極的優生学と積極的優生学がある

 消極的優生学は望ましくない形質や遺伝的欠陥を持つ人の生殖を規制しようとするもの。

 積極的優生学は生まれる前の段階でなんらかの操作を加え、優秀とみなされる資質を備えた人間を多くするというもの。

 生産性や合理性を重視する新自由主義と経済的な行き詰まりが現代優生学を助長してしまっている。

科学が優生学を後押しするようになった

 優れた人物の遺伝子を受け継ぐべきという考え方自体は古代の時代からみられる。古代から近代にかけては社会的、宗教的に肯定されてきた優生学は近代に科学によって後押しされるようになる。

 人間の才能が遺伝によって受け継がれるという主張は、人為的選択を適用すればより良い社会になるという発想を生み出していった。

 家畜や作物の品種改良の成功にしたことで人間の改良も可能との考えにつながった。人間の形質を直接変える直接優生学の実現は難しかったため、消極的優生学へと変化していった。

優生学は経済的な苦境で広がりやすい

 アメリカでは第一次大戦前には優生学的な考えが拡がり、知能が低いとされる移民の断種が行われていたが、徐々に廃れていった。廃れた最大の要因は好景気による経済問題の解消。

 人種優越説は都合の良いデータだけを集めれば、立証できてしまうため経済的な苦境で支持を集めやすい。富が充分にいきわたれば多くの場合マイノリティに対して寛容になり優生学的な考えを持たなくなる。

 現在、世界的に優生学的な主張が活発化しているのも、格差拡大の伴う経済的な苦境が原因である可能性も有る。

ナチスは人々を役に立つたたないで線引きし、役にたたない人にコストをかけるべきでないと考えた

 ナチスはユダヤ人の排除による人種主義と共生不妊や安楽死をもたらした優生政策を行ったが、2つの政策は別のものである。

 当時のドイツは医学の分野で世界的に有名であったが、優生学的な考えを主張する科学者もおり、有政策の下地ができていた。

 ナチスが政権を取ると、医学界は政府の管理下におかれ、個人の健康よりも民族全体の健康に奉仕することが求められるようになる。重度のアルコール依存症や遺伝病患者に対し不妊手術を申請することが義務化されるようになった。

 さらにはT4作戦によって精神障害者や身体障害への安楽死を行うようになっていった。

 現代の優生学との類似点は人を役に立つ、立たないで線引きし、役に立たないひとへコストをかけるべきではないという主張。その線引きは恣意的で差別的に行われており、今役に立たない人間の排斥を求めている人でもいずれ役に立たない人として切り捨てられてしまうかもしれない。 

母体の保護のための中絶の合法化が断種を正当化した

 日本では大戦での敗戦後も障碍者に対する差別や偏見、優生学的な思想は残り続けた。ナチスでも日本でも優生学的な政策は福祉や人権から出発している。一人でも多く子供を産むように強制された女性の人権や健康を守るために中絶が合法化される。中絶の合法化はのちに不良な子孫の出征の防止へと広がっていく。母体の保護を目的とした運動が断種の正当化につながってしまった。

 ハンセン病患者は感染力の低い病気で治療薬の有効性が確認されていたにもかかわらず、患者の隔離という消極的優生学の形でハンセン病患者を撲滅する方向を長い間続けた。

 新型コロナでのエッセンシャルワーカへの差別はハンセン病患者の強制隔離の歴史を思い起こさせる。見えない病気におびえた差別、偏見の歴史を冷静に振り返る必要がある。

経済的な視点で命の選別を行えば選択的な命の切り捨てが起こる

 過度な自己責任論を押し付ける社会の風潮や社会保障費の増大などが安楽死、尊厳死を認めるような主張につながっている。また生産性という一面的な側面で人間の命を測ったり、役に立つか、たたないかで人を選別するような動きもある。経済の縮小期にはこのような考え方が多くの人の心をとらえてしまう。

 人の命を経済活動の一環としてとらえ、コストや生産性の視点で評価する思想が浸透し、経済的な観点で命の選別を許すと、間違いなく選択的な命の切り捨てにつながっていく。

 多くのの人が尊厳死を容認しているが、筆者は自らの死を自分自身で決める権利はなく、決められるようにするべきでないと考えている。

 高齢化が進み、同調圧力の強い日本では生きる権利がないがしろになってしまう恐れもある。

優生学の思想は特別ではなく、ありふれたもの

 人類は歴史上、国家、社会、個人を問わず優生学の誘惑にさらされてきた。ナチスやハンセン病患者への日本の対応は極端な例だが、その思想自体はありふれたもの。

 優生学は優れた遺伝子の比率を高めることで、優れた社会を実現しようと考えるもので、人間を人為的に改良できるという考えが根幹にある。

 分子生物学の発展で出生前の胎児の資質を知ることができるようになった。また人工授精の技術の進歩により人工受精で受精卵を作成し、病気の有無を確認してから子宮に戻すことも可能になった。隔離や不妊化などと比べればはるかに洗練され抵抗感も少ない方法ではあるが、命の選別であることにはかわりない。胎児は意思を示すことができず、倫理的な議論が追いついていない

遺伝子から人間の資質を決めることはできない

 人間の資質や能力、行動を規定する遺伝子の発現メカニズムはまだよく分かっていない。遺伝子の発現が後天的な影響で変化するエピジェネティクスという仕組みも見つかっており、解明には遠い状況

 遺伝子が100%一致する一卵性双生児と50%一致する2卵生双生児の違いを研究した結果では、指紋や体重では一卵性双生児で高い相関が得られた。一方、IQの値には50%程度しか、相関がみられなかった。膨大な遺伝情報のうちどの情報がどのような行動を規定するかは全く解明されていない。

 脳の神経回路は可塑性を持っており、柔軟に構造を作り変えることができる。環境や経験で神経回路を作り変え、機能面で個々で大きな違いが生まれる面があるため、遺伝子で人間の資質がきまるとするのは飛躍しすぎている。

ゲノム編集によるエンハンスメントが優生学的な差別につながる

 クリスパーを使用したゲノム編集は従来の遺伝子組み換え技術などと比べ、精度高く、簡単に遺伝子の編集を行うことができる。現在は動物や植物の品種改良や遺伝病をふせぐ研究に利用されているが、人間の身体的、精神的機能を高めるエンハンスメントに利用されると経済的な差が能力の差となり、優生学的な差別が生じる可能性も有る。

 優生学が暴走した場合に社会のブレーキが必要だが、社会のブレーキも徐々に減衰してしまっている。

新型コロナの流行は人の持つ優生学的思考を

  新型コロナの流行では、在宅勤務できない人たちに感染者や重症化した患者が多く、健康格差がひろがっており、経済的不平等が改めて浮き彫りになった。

 人々の相互不信も増幅しマスクを着用していない人への怒り、他県からの越境者を排斥しするなどの行為が見られた。自分とは異なる倫理観や行動規範をもつ人々の行動を変容させることに正義を感じ始めている。ナチス政権下で障害者を政府に通報したり、ハンセン病患者の隔離を行った人たちもそれが正義と信じていた。

 感染者を責めるような行為は公衆衛生にとってはマイナス。感染した際の差別を恐れ、病気を隠しながら生活を続けてしまい、ウイルスの拡散を助長してしまう。

 人間は未知の存在に直面したときに対象を隔離、排除することで安心してしまう。目に見える誰かを危険な存在とし、排除することで目に見えない病気の恐怖から逃れようとする。

コメント

タイトルとURLをコピーしました