さらば、神よ 科学こそが道を作る リチャード・ドーキンス 早川書房 要約

人類は神を卒業し、科学を信じることができる

 古今東西、様々な神が信じられてきた。筆者はそれらの神が信じられてきた理由が正当であるかを確かめることで、神を卒業し、科学を信じることができると考えている。

 イエスは実在したが、超常的な行動や言動が起きた可能性は低い。新約聖書は2000ほど前に書かれており、その内容をもとに信仰している人もいるが、新約聖書の中身は歴史的に疑わしい、誤っている部分も多い。

 イエスそのものは実在した可能性は高いが、イエスの超常的な行動や言動は伝言ゲームのように変わっていってきた。たった数十年前の事件でもその内容が変化することもあるため、2000年前の出来事が事実と異なることはまず、間違いない。
 奇跡的な出来事が起きたとき、本当に奇跡である可能性よりも見間違いやトリック、ウソなどであることのほうがはるかに可能性は高い。

旧約聖書は史実ではなく神話

 新約聖書よりさらに以前に書かれた旧約聖書は史実ではなく、神話とみなせる。神話は美しく、興味深いが史実ではない。

 しかし、神話や物語を史実として、信仰している人も多く見られる。アメリカでも半数の人はアダムとエバの物語を文字通りに信じている。このような人々はもう半数の信じていない人々の邪魔となってしまうこともある。

道徳性を持つために聖書が必要との声もあるが、疑問が残る

 聖書は史実ではないが、道徳性を高めるためになくてはならないと考える人もいる。しかし、神が自身への信仰が本物か確かめるために信者にかなりひどい行いをし、それでも信仰するか確かめるなど、非道徳的な内容も多く見られる。

 物語の神は残酷で、嫉妬深い面が強く、内容が民族浄化や児童虐待を連想させるような内容があることも事実。

 大いなる力を信じることで、天に見張られている感覚を持ち、道徳的な行動をとるという考えは一定の事実ではある。しかし、無神論者の犯罪率は信仰を持つ人達と比較し手低い傾向にある。
 
 聖書には魅力的なことを言っている部分もあるが、あまり多くない。どこを参考にし、どこを無視するべきかは当然聖書には書いていない。

道徳的な価値観は短時間で変化する

 道徳的な善悪の変化は進化的な時間に比べ、あまりに早い時間尺度で起きている。奴隷の開放、女性の選挙権、戦争時の民間人の巻き添えの考え方などは1世紀以内の短い期間で大きく変化している。

 現代の道徳律と聖書の道徳律は全く違う。善良であるために神が必要という考えを捨て去るべきなのはこの変化の速さが大きな理由。

多様な生物は設計者ではなく進化が生み出した

 多様で複雑な生物を見ると、完璧な設計者がいるのではと考えてしまうが、そうではない。また、生物のデザインは完璧なわけではなく、欠陥があったり、デザイン的に無理があったり、意味のない機能を持っている場合もある。

 眼などの複雑な器官が突然出来ることは確率的に非常に低いため、神による設計を想像してしまう。生物は突然変異による小さいな変化を起こすことがある。変化が生存に有利になれば、その変化は次世代に残りやすくなり、その変化が徐々に強化され、現在見られるような器官となっていった。

 自然の長大な時間がこのような変化=進化をもたらし、多様で複雑な生物が生まれることとなる。

 家の設計などで設計図を決め、建築するような方法はトップダウンと呼ばれる。生命は細胞の持つDNAによって作られるが、その手法は設計者がデザインを行うようなトップダウンではなく、個々のDNAが互いに調整しあうボトムアップ式で成り立っている。

誤ったパターン認識が宗教や信仰へつながった 

 我々は起きた結果に対し、その原因を探ることで生存を有利にしてきた。空の状況から天候を予測できることは、危機を避けたり、農業に有利になる。

 しかし、誤ったパターン認識をし、意味のないいけにえや祈りを原因と考え、それらの行為を続けてしまうこともある。これらの誤りがやがて信仰や宗教へとつながった。

 また、子供が親の言うことを聞くことも生存に有利であったため、親の言うことをなるべく聞くように進化してきた。

他者に親切にすることも本能であり、神が必要なわけではない

 親族を助けることは自身のDNAを後世に伝えるためにも役に立つ。このことが人に親切にするようになった始まり。親族以外の人にも親切にすることで生存に有利になるため、他人にも親切をするようになった。

 親切にすることは本能的に組込まれており、このことも我々が善良であるために神が必要でないことを示している。

神に見切りをつけ、常識をひっくり返す科学と向き合う勇気が必要

 科学で明らかになっていない空白部分を神で補おうとすることは、進化論が誕生してからも見られている。
 科学は常識をひっくり返すため、理解しがたかったり、衝撃的でもある。科学にはぞっとするような部分もあるが、それと向き合う勇気を持つ必要がある。

 ガリレオを批判した人たちは地球が回っているという感覚にぞっとし、批判をした。自然淘汰も誰も設計者がいることに疑いを持たなかったため、発見は遅くなっていた。

 ありえないような空白部分に踏み込むことは科学史においてたいてい正しいこと。それゆえ、神に見切りをつけるべきと考えている。

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