はじめての昭和史 井上寿一 ちくまプリマ―新書 まとめ

本の概要

 昭和時代を振り返ることで、今日と類似した問題を昭和にも見いだすことができる。

 コロナへの対応で見られるグローバリズムの生きづまりと国家の復権は、戦前昭和でも見られていた。

 緊急事態宣言中の自粛警察などの市民の相互監視は、昭和末期の天皇の容態悪化時の自粛ムードの広がりに似ている。

 憲法、外交、政党政治、安全保障、格差、社会運動、文化、メディアの8つの面から昭和史を見る。

 同じ昭和であっても、戦前=戦争とファシズム、戦後=平和と民主主義と大きな違いがある。

 この違いは憲法(大日本帝国憲法と日本国憲法)によってもたらされている。

 昭和の初めは政友会と憲政会の2大政党時代。しかし両政党ともイデオロギーの対立は希薄でよく似ていた。アメリカの共和党と民主党に似ており、頻繁に政権交代が起こった。

 戦後保守派が合流し自由民主党が結党した。これが55年体制。

 自民党派閥間での総裁=首相とする政治システムは昭和末期には機能不全に陥り、政権交代のある政党政治が望まれるようになっていった。

 戦前昭和は協調外交で進んでいた。戦後は基本的にはアメリカへの追従路線での外交で進んでいる。

 日本に対し、アメリカは経済的な協調を強めていく。冷戦下ではアメリカ型とロシア型のどちらの生活様式が優れているかの競争になっていた。日本はアメリカ式の生活様式の模範国であったため協調関係を重視した。

 戦後の日本では憲法の戦争放棄を維持したまま、自衛隊を保持し、自国の安全保障をアメリカにゆだねてきた。日米安保条約はアメリカが日本で基地を使用できるが、日本の安全を保障する義務がなかった。

 日本がこの条約を結んだのは、独立のために締結せざるをえなかった。国連安保が機能するまでの暫定処置のはずだったが、国連安保が機能することはなく、改訂したのみで続いている。

 国連安保が機能するよう外交するのか、改憲し自主防衛を選択するかの結論は持ち越されている。

 戦前昭和は現在と同じく、格差社会であったにもかかわらず、社会主義を掲げる政党はほとんど議席を持っていなかった。今も過去も国民が大きな変化には期待していない。

 戦後、高度成長期で格差は縮小。わずかな格差は残ったものの、生活が良くなっていくことを実感していた。高度成長期がおわると再び格差は広がっていく。

 平成の日本では社会運動があまり見られなかったが、昭和は多くの社会運動が見られた。

 社会主義運動は何度か起こったが、実を結ぶことはなかった。反核、安保反対、学生反乱などが昭和の社会運動で見られた。

 戦時中、政府の検閲が行われたが、それを促したのは民意だった。ラジオへ投書で意見をしていった。現在のネット警察などと同じようにメディアを通して民意が政治を動かしていた。

 メディアは媒体は様々で、政治と国民の間に介在しているが、政治家を必要以上に持ち上げたり、叩いたりと政治と共犯関係を結ぶことで国民世論を誘導することが昭和からい常にみられている。

本で学べること

  • 昭和史の概要、昭和を通じての日本の行動やその狙い、その結果がもたらしたものなど。
  • 教科書で得た知識と実際の違い
  • 現在の日本と昭和日本どこが違いどこが、似ているのか 

はじめに

 昭和時代を振り返ることで、今日と類似した問題を昭和にも見いだすことができる。

 コロナウイルスによって見えているのはグローバリズムの行き詰まり。国家の枠組みを超えた対応が必要だが、実際には米中の対立を強くさせた。このような状況は戦前の昭和でも見られたこと。

 国際危機に対し、グローバリズムによって国家の復権が見られている点で類似している。

 緊急事態宣言中の自粛警察などの市民の相互監視は、昭和末期の天皇の容態悪化時の自粛ムードの広がりに似ている。

 8つの異なる観点から光を当てることで昭和の時代像を再構築する。

第1章 帝国憲法と日本国憲法のつながり

 同じ昭和であっても、戦前=戦争とファシズム、戦後=平和と民主主義と大きな違いがある。

 この違いは憲法(大日本帝国憲法と日本国憲法)によってもたらされている。

 大日本帝国憲法では天皇主権ではあったが、各国務機関が代行することで意思決定をしていた。

 さらに昭和に入ると、政党政治が確立し、国の運営を担うようになる。

 戦後、占領国は改憲を通じて、日本の無害化を図るため、戦争放棄を求めた。当時の首相幣原は消極的だったが、アメリカが天皇の存続させることを認めたため、合意。

 押し付けられた憲法というイメージもあるが、当時の世論調査では象徴天皇を支持していた人が多く積極的に受け入れていた。

第2章 政党政治をめぐる三つの疑問

 政党政治は政党が政治を動かすこと。国家が議会を設置し多数派の政党は選挙で変動する。このような国が政党政治の国。

 昭和の初めは政友会と憲政会の2大政党時代。しかし両政党ともイデオロギーの対立は希薄でよく似ていた。アメリカの共和党と民主党に似ており、頻繁に政権交代が起こった。

 しかし、腐敗した政党政治への国民の怒りから非政党内閣による首相が選ばれるようになり、戦後まで政党政治の復活は見られなかった。

 敗戦後、政友会は自由党、民政党は進歩党となり政党が復活する。女性の参政権を認め、共産党が合法化されるなどの変化も見られた。

 自由党の吉田はこの時期に首相になり、5度内閣を組織した。吉田の最優先事項は独立だった。

 冷戦の影響で日本を独立させ味方につけたいアメリカの思惑もあり、1951年に講和条約が調印された。その後、鳩山一郎が反吉田勢力を結集させ、首相となるも単独過半数を得られなかった。

 そのため、保守政党が合流し、自由民主党が結党された。革新政党は社会党に統一。これによって1955年体制が成立。

 鳩山の後継である岸信介は日米安保条約の改定を主な目標としたが、国会での強行採決を行ったため辞任。その後は吉田派の池田内閣となる。

 池田内閣は所得倍増計画などで空前の成功をおさめ、自民党が大きく勢力を持ち、社会党は与党を批判する勢力に留まった。

 自民党派閥間での総裁=首相とする政治システムは昭和末期には機能不全に陥り、政権交代のある政党政治が望まれるようになっていった。

第3章 戦前と戦後に共通する協調外交

 協調外交は内政不干渉(他国の国家体制に干渉しない)の原則の下で共通の目標の実現を目指す。

 戦前昭和は協調外交で進んでいた。日英米の協調も見られた。しかし満州をめぐり関東軍が強硬な態度を示し状況が変化。その後の日中戦争につながっていく。

 その後、日独伊三国同盟を結ぶ。三国同盟は日米戦争の分岐点と指摘されるが、アメリカとの交渉を有利にするためで、アメリカも対日戦争は回避するほうが合理的と考えいた。

 ドイツのロシア侵攻、日本の南部仏印進駐などで交渉は暗礁に乗り上げ日米戦争へとつながる。

 戦後の外交はアメリカに対する追従路線と自主路線の闘いと指摘されるが、基本的には追従路線で進んでいる。

 所得倍増計画で高度成長を進めた日本に対し、アメリカは経済的な協調を強めていく。冷戦下ではアメリカ型とロシア型のどちらの生活様式が優れているかの競争になっていた。日本はアメリカ式の生活様式の模範国であったため協調関係を重視した。

 アメリカ追従のマイナスは東南アジア諸国との関係がアメリカを介した間接的なものにとどまっていたこと。それでも対米だけでなく、多国間先進国協調、アジア諸国との連携する地点まで達していている。

第4章 安全保障政策

 昭和初期世界は第一次世界大戦後の軍縮の機運に包まれており、日本でも軍事費の削減が見られた。

 関東軍による満州事変はロシアの軍事的脅威が高まっていると判断したために起こった。しかし実際には満州を支配しても軍事資源が見込みより少ない、ロシアの軍事力強化は凶作などで進んでいなかったなど過剰反応の面もあった。

 陸軍は中国への侵攻を開始、ドイツの仲介による和平交渉も海軍の反対もあり、失敗に終わってしまう。

 その後、ロシアとの軍事衝突(ノモンハン事件)で敗北すると、東南アジアへの侵攻に切り替えた。この切り替えが大戦へとつながっている。

 戦後の日本では憲法の戦争放棄を維持したまま、自衛隊を保持し、自国の安全保障をアメリカにゆだねてきた。

 日米安保条約はアメリカが日本で基地を使用できるが、日本の安全を保障する義務がなかった。

 日本がこの条約を結んだのは、国連安保が機能するまでの暫定処置のはずだったが、国連安保が機能することはなかったため、改訂したのみで続いている。

 また、不平等条約でも締結したのは、講和条約による独立がセットだったため、選択肢がなかった。

 改憲を目指した岸信介首相が実現できないと、池田内閣では経済を優先し、改憲を棚上げしている。

 国連安保が機能するよう外交するのか、改憲し自主防衛を選択するかは持ち越されている。

第5章 格差の拡大から縮小へ

 戦前昭和は現在と同じく、格差社会であった。第一次大戦後の反動不況によって昭和初期は長期の経済停滞状態だった。

 社会主義革命は平等主義によって格差を是正をうたっているが、選挙でこれらの政党はほとんど議席を持っていなかった。

 戦後は占領軍による財閥解体、労働者の地位向上、農地改革などで格差は縮小方向に進む。

 その後の高度成長期でさらに格差は縮小。生産性向上と技術革新が賃金を向上させ、家電製品を中心に国内需要主導によって経済成長が起こった。

 1億総中流でも格差は残ったものの、生活が良くなっていくことを実感していた。

 その後、需要減、設備投資減などで高度成長期がおわると再び格差は広がっていく。

第6章 絶え間なく起きる昭和の社会運動

 平成の日本では社会運動があまり見られなかったが、昭和は多くの社会運動が見られた。

 昭和初期の大きな社会運動は、共産主義運動。しかし多くの労働者は自身の地位向上を望んでいたため、選挙でも多くの議席は得られなかった。

 五・一五事件は軍人によるクーデターと見られるが、実際にはテロのような形。それでも、被告である軍人には政党、財界などへの批判から国民から支持を得る。これによって軍人の地位向上につながった。

 二・二六事件はクーデターだったが、好景気に沸く国民の支持を得られなかった。

 これらの社会運動は反政府運動だったが、政府が主導する国民運動もある。

 国民精神総動員法は日中戦争に国民を動員することを目的としたが、振るわなかった。

 戦後再び社会主義運動が起きるが、再び挫折。

 次に起こったのは反核・平和運動=原水爆禁止運動。唯一の被爆国としての訴えも世界では核保有国が増加していった。

 その後、安保反対運動が岸首相の強行採決に反発し起こる。安保反対は通らなかったが、岸首相は混乱の責任を取って辞任した。

 昭和最後の社会運動は学生反乱。学生反乱は高度成長期に社会に発生した断層に応じて発生した。

第7章 文化が大衆のものになる

 昭和文化では大衆文化が花開いたことが特徴。経済発展によって庶民に大衆文化が広まった。

 昭和初期にはデパートの出店が相次いだ。

 ラジオも普及も松下電器の壊れないラジオの向上や日中戦争で普及が進んだ。

 戦後に入ると、活字文化の発展、コーラなどのアメリカの大量消費文化などが見られた。

 その後はテレビの登場が大きな変化となり、今に続いている。

第8章 メディアをめぐる問題の提起

 近代の日本で新聞の部数が伸びたのは、戦争を契機としていた。満州事変前までは伸び悩んでいた新聞は事変後新聞は大きく部数を伸ばしていく。

 それまで軍部に否定的だった社論が正反対になることもあった。

 戦時中、政府の検閲が行われたが、それを促したのは民意だった。ラジオへ投書で意見をしていった。現在のネット警察などと同じようにメディアを通して民意が政治を動かしていた。

 戦後も占領軍による検閲が続いたが、独立回復後はテレビが急速に発展していった。

 メディアは媒体は様々になっているが、政治と国民の間に介在しているが、政治家を必要以上に持ち上げたり、叩いたりと政治と共犯関係を結ぶことで国民世論を誘導するがあった。

 それでも一方的な国民世論の誘導は徐々に難しくなってきている。

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