リベラルアーツ 「遊び」を極めて賢者になる 浦久俊彦 3分要約

3分要約

リベラルアーツとは何か

 リベラル=自由、アート=芸術と訳されることも多く西洋では奴隷ではない自由民が学ぶべき基礎科目とされ,この世界とは何か?などの根源的な答えに応えるもの。

 筆者はリベラル=遊び,アート=わざと訳し遊ぶためのわざと捉えることがリベラルアーツの本質と考えている。

リベラルアーツはなぜ必要か

 合理化によって,万人の幸福感が増していくやり方に限界が見えたことで,人類全体が方向性を見失っている。

 そのような状態でリベラルアーツを身につけることで合理化だけでは得られない想像力と創造力をもたらし,未来を描くための羅針盤とすることも可能になる。

リベラルアーツはどのように生まれたのか

 西洋では数論,音楽,幾何学,天文学など自由人が学ぶべき科目として,中国では超越的なものとのコミュニケーションを図るための六芸として生まれた。

 世界を読み解くための方法として発展していった。

リベラルアーツを身につけるにはどうすればよいか

リベラルアーツ=教養と捉えがちだが,特定の学問を勉強をすれば身につくものではない。

 自らの人生を歩む中で学び、考えることで身につけるしかない。

 これらの学びを勉強ではなく,遊びとし,自分の興味のままに任せることが重要。

困難な時代を生きるには人生を遊ぶことが重要

 現代はとても困難な時代になっている。近代社会が理想とした合理化によって人類が進化し,万人の幸福感が増すと信じたような大きな物語を書けなくなり方向性を失っている。

 そのような時代に生きるに値する未来を描くには,人生をいかに遊び続けるかが重要。

 遊びながら生きることは楽をして生きることで者なく,人生を遊び続けることは簡単なことではない。

 人生を遊び続けるために必要になるのがリベラルアーツ。リベラルアーツはただの知識や教養,武器ではなく未来を作ることのできるもの。

 リベラルは自由と訳されるが,リベラルの精神にピッタリなのは「遊」。アーツも芸術と言うよりも「わざ」の方が意味があっている。リベラルアーツを遊ぶためのわざと捉えることで学問の領域から解き放ち,未来を描くための羅針盤とすることができる。

想像力と創造力の欠如が日本低迷の原因

スティーブジョブは新製品の発表の際に,テクノロジーとレベラルアーツの交差点に立つように心がけていることを語っていた。

  日本経済の凋落と低迷はテクノジーだけを追い求め,リベラルアーツの精神を顧みなかったことによるアンバランスが大きな要因。

 リベラルアーツがもたらす,想像力と創造力の二つのソウゾウリョクの欠如が日本の低迷の原因となっている。

 リベラルアーツは無用の用であり,効率化によって無駄を省く社会では排除されてしまうが,一見無用に思えることが役に立つことは少なくない。

リベラルアーツは世界を読み解く言語として生まれた

 リベラルアーツは古代ギリシャの四科に由来しており,数論,音楽,幾何学,天文学などの自由人が学ぶべき基礎科目に遡るもの。

 リベラルアーツの概念が誕生した背景には,「この世界とは何か?」という根源的な問いがあり,世界を読み解くための言語を身につけることであった。

 音楽が含まれることは意外だが,音楽を世界の調和を読み解くための言語と捉え,宇宙と人体を調和=ハーモニーで繋ぐ重要な役割を果たしていた。

東洋にもリベラルアーツの源流はある

 リベラルアーツは西洋由来と考えがちだが,東洋にもリベラルアーツの源流は存在している。

 古代中国の六芸は身分あるものが収めなければならない6つの技芸であり,

・礼:天地の動く理を知ることで正しい行動の中に表す

・楽:超越的なものとコンタクトする音楽などの技術

・射:弓道 自分の手から離れたものをコントロール技術

・馭:馬術 自然の力をコントロールする技術

・書:文字によって祖霊や神霊のような超越的なものと出会ったり,一体化する

・数:数字によって時空を超えた思考の広がりを手にする

の6つからなる。

 六芸は意を通じにくい他者や超越的なものとのコミュニケーションを図ることに重きを置いていた。

 リベラルアーツは,世界を読み解くための方法で,世界を語るための言語と考えられている。

リベラルアーツは教養のためだけのものではない

 リベラルアーツが日本に紹介された当初は教養という概念と結びついておらず,芸術やアートと強く結びついていた。

 その後,教養を身につけると立派な人になれるという日本に特有で偏った価値観によって,リベラルアーツが教養や教育カリキュラムとして意識されるようになった。

 日本型の教養は舶来文化の崇拝や知識人の世間一般を見下す傲慢さを生み出してしまい,教養が欲望や権力の道具となってしまったことが大きな社会問題として浮き彫りになっている。

遊という字は東洋、西洋両方の自由の意味を含んでいる

 リベラルアーツのリベラルは自由と翻訳さえることが多いが,西洋の自由にはFreedomとLibertyの二つの言葉で表現され,Freedomは何にも束縛されない受動的な自由,Libertyは自分で勝ちとる能動的な自由という違いがある。

 リベラルアーツのリベラルはLibertyの意味であり,奴隷ではない自由民の階級を意味しており,拘束や奴隷からの解放という概念がある。

 一方で東洋の自由は,自ら考え行動し、境界を超えて行くというニュアンスが含まれており、自由という言葉ではリベラルアーツの精神を表すことが難しい。

 筆者は西洋的な自由も東洋的な自由の意味を含む「遊」がふさわしいと考えている。

アートは芸術ではなく、わざと訳すと伝わりやすい

 アートも芸術と訳してしまうと本来の意味が見えにくくなる。西洋ではアート=人間が作ったもの全てというのが本来の意味であり、神が作り出したもの以外という概念を持っている。

 アートは芸術ではなく、「わざ」と訳すことで本来の意味が伝わりやすくなる。

 西洋では神の作り出した自然を対象とする科学を自然科学、人間社会を対象とした科学を社会科学と分類している。リベラルアーツは両分野をつなぎ合わせることのできる可能性を持っている。

遊びはとはただの娯楽のことではない

 リベラルアーツを「遊ぶためのわざ」とすると反発する人もいるが、遊びはただのゲームや娯楽だけの狭い意味ではない。 

 今の社会の問題も効率化や合理主義、管理社会などで遊び心が失われてしまったことが要因の一つ。

 江戸時代の人々は厳しい環境であったにもかかわらず、遊びを実践することで満足度の高い暮らしを実践していた。

 現代人も人生を遊び続けるには無数の方法があるが、以下の3つを実践すれば誰もが人生を遊び続けることができる。

・人生の旅人になってみる

 20代のうちに二つ以上の国も異なる文化に触れてみることで、日本を外から見ることができる。本を読んで、時空を超えた冒険をし、想像力のエネルギーとすることもできる。

・自分のためだけでなく、自分の周りの人々のために遊んでみる

 自分の利益だけを追求していては、共同体を維持できない。人のために遊ぶことを知ると、自分だけが遊ぶ世界は小さい世界と気付かされる。

・仕事と遊びの境界線をなくしてみる

 仕事をただ稼ぐためのものと考えずに、自分が世界といかに関わるかと考えるべき。組織に依存する必要はないが、自分を律し誰かのせいにしたり、寄りかかったりしない姿勢が必要。

リベラルアーツを学ぶカリキュラムはない

リベラルアーツは世界を読み解くための方法で、世界を語るための言葉であり、取得するための教育カリキュラムがあるわけではない。

自らの人生を歩む中で学び、考え、自らの染み込ませていくしかない。そのためには次の4つの方法しかしない。

・知ること:自分がいかに知らないかを知ること

・観ること:目で見るだけでなく、観察すること。見えないものを見たり、本質を掴むこと

・読むこと:自分の視座を離れて読んでみる

・考えること:大事なことを正しく考えることで世界の正体を見抜くことができる。

単純だと思う人もいるが、この4つを生きる中に取り込むことがリベラルアーツを取得する方法。

この4つを勉強ではなく遊びにしてしまい、自分の興味のままに任せることが重要。子供には遊びと勉強に違いはなく、境界線を勝手に引いているのは大人。子供を見習い、人生を遊ぶようにすることはとても重要で有効なこと。

遊び続ける覚悟があれば生きるに値するものになる

筆者がリベラルアーツの精神をいかに次世代に伝えるかという観点から3つの活動を実践している。

1.芸術を文化にする 自分の目で物事を見て、頭で判断し、自分の言葉で語ることができるようになる

2.教養から供養の時代へ 供養によって二つのソウゾウリョク(創造力+想像力)を育む

3.これからの公共は市民の手でつくる 他人任せの大衆から自分で考え、実践する市民へ変化する

人生を遊び続ける覚悟があれば、一人一人が生きるに値するものになると筆者は信じている。

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