未来は決まっており、自分の意思など存在しない 心理学的決定論 妹尾武治 光文社 要約

自由意志は幻想ですべてが事前に決まっている

 20年心理学を学んできた筆者は「この世はすべて事前に確定しており、自分の意思は幻想だ。」とする心理学的決定論の仮説を持っている。

 心理学、生物学、脳科学、哲学、アート、文学を横断してながめると、繰り返し同じ結論=心理学的決定論が得られる。本書ではそれらの領域を横断するエビデンスを紹介し、本を読み終わると心理学的決定論を受け入れざるを得なくなる。

何かを行うときには意志の形成より先に脳が動いている

 誰もが自分の行動は自分の医師でコントロールしていると直感的に思っている。しかし、意志というものの存在はとても簡単に揺らいでしまう。

体のどこかを動かそうとした際の脳の動きの研究では,まず脳が無意識に動き出し,次に動かそうという意志、最後に体をうごしている。つまり意志が形成される前に脳は動いている。

野球選手がボールを打つのも頭で意志を持ってからでは決して間に合わず、意志を伴わずに体と脳が先に動いている。

意志が行動の後付けに過ぎなければ,周囲の情報を全て把握できれば,何が起こるか,人がどう行動するかが全て決まると考えられる。これが心理学的決定論であり,筆者は決定論を受け入れるべきと考えている。

多くの研究で決定論が示唆されている

ある研究では,意志よりも勘が,勘よりも行動が,行動よりも体が危険に気づいているという結果もある。意識は体からの無意識の声を聞いて意志を作ったり,変化させている。

枯れ葉が落ちることとには意志は感じず,人間の行動には意志を感じることが一般的だが,ただ情報の変換の複雑さの違いでしかないとする考え方がなされている。意志や意識は脳に関係しているのではなく,万物に意識はあり,人間だけが自分の行動を意思や意識で制御しているわけではない。

我々は意志の力ではなく,脳と環境の相互作用によって自動的に体をうごかされている。意志で作っているように見えても全ての行動は環境からの刺激に対する反射でしかない。

犯罪行為も自由意志ではなく、脳などの環境を大きく受ける

脳の一部を損傷することでその人の行動や性格が変わってしまうことは多く報告されている。前頭葉の損傷が思考力や判断力が低下してしまうために起こることとして知られている。

現在,殺人事件が起こる精神鑑定を行い,責任能力の有無を判定しているが,技術が進歩することで現代では精神異常にないとされた人でも、50年後の技術では脳に異常が見つかる可能性もある。

 小児愛や動物を虐待することを好むことも脳の働きによるものであることが明らかになっている。多くの人は脳の好みと世の中のルールが合致しているが問題にならないがルールで禁止されたことを好む脳を持つ場合、それは不可避な欲求として襲ってくる。そしてこのような脳を持つごく一部の人が欲求を行動に移してしまう。

 社会は事件が起こってから、断罪し、人物像を繰り返し報道するが、本当に必要なことはそのような脳を持つ人への治療だが、そのような情報は社会にも不足している。そのような人たちに対する寛容さを失うといつの時代、どこの国でも悲劇が起きてしまう。日本でも秋葉原の殺傷事件や相模原障害者施設殺傷事件は脳の異常は今後明らかになる可能性もある。

自由意志とAIのブラックボックスに違いはない

 人間の脳も神経細胞一つで何が起きているかは充分な理解がされているが、それらが1000億単位で集まった時にどうやって心が生まれるのかは全く分かっていない。この問題は20年以上も前から指摘されてきたが全く解決できていない。

 自分自身にしかアクセスできない感覚(色の感じ方や恋人に抱く気持ち)の質感のことをクオリアと呼び、クオリアは数式や言語であらわすことができない。

 心理学的決定論は人間だけに当てはまるものではないので、AIにも当てはまる。AIが進化を続ければAIの出した答えの理由を人間が理解することはできなくなる。AIがクオリアを持つ日は近いがそれを人間が理解することはできない。

 我々の行動もAIの選択と同様膨大な情報から導かれた結論でしかなく、その過程が理解不能だからこそ自由意志と感じている。自由意志はAIのブラックボックスと同じであり、錯覚でしかない。

行動を促すのは意思ではなく、周囲の環境への反応

 我々は自分の行動を自由に選択していると考えているが、実際には、知覚という段階で得られた情報処理からの結論に縛られている。知覚した世界と物理世界が食い違うことは錯覚などでも多く見られる。物理世界は一定で不変でも、知覚世界はそれを感じる知覚者の状況に応じてコロコロ変わっていく。

 知覚できないような弱い刺激が行動に影響を及ぼすサブリミナルや、行動の前の別の刺激がその行動に影響を及ぼすプライミングなどもあり、我々の取る行動は外界環境からの刺激とその履歴で決まり、それらは脳内で構成されており、外界の全容はつかめず、五感を通してしか見ることができない。

宗教でも決定論の考えは見られる

 仏教などの宗教では唯識論が多く見られ、唯識論は自身の心以外のものはすべて存在せず、外界のものはすべて自分の心が作り上げたものとする考え方。世界のすべてを自分が決めているのであれば、世界そのものが事前に決定していると言え、心理学的決定論を仏教的に示唆した事例となる。

 年収が700万円程度が幸福度の点上であることが知られており、それ以上の年収でも大きく幸福度は上がらない。脳が世界を構成しているからこそ、客観的事実や物理的なものに幸せに規定されていないとも考えられる。(ただし、年収700万までは幸福と相関がある。)

自然科学の分野も決定論を支持している

 量子は観察される前は波として振る舞うが、観察されると粒子として振る舞うことが知られている。このように観測される前は波と粒子の状態が重なっており、量子論の観測者の存在によって世界のあり方がきまるという点は、心理学的決定論に近い考えを持つと言える。

 脳科学も心理学的決定論を支持するものと筆者は思っている。

 意識と脳活動の場所を一致させることも可能になってきており、脳の特定部位に電気刺激を与えることで意識的な行動に影響を及ぼすことも可能になってきた。

 しかし、知覚や認知を行う脳の場所は分かっても、どう処理してるのか、なぜそのような処理を行うのかはわからなった。興奮したときに脳のどの部分が異常活性するかは分かっても、なぜ、その部分が異常活性するようになったかは分からない。

 脳の構造がなぜそうなったかがわからないということは、特異な脳を持ったことが事前に決まっていることとなり、心理学的決定論を支持することとなる。脳科学の限界を超えるためにも心理学的決定論についての実証的な研究を始める必要性がある。

意識と生じた行動は情報に還元できる

 意識とは情報の足し合わせ、つまり解釈のことであり、成功を解釈するためのアルゴリズムであるとされる説もある。人間は高度な情報の解釈、統合が可能であり生物でも最上位の意識を持っている。

 筆者は統合がなく情報そのものが意識であるとため、意識によって生じる行動も数値化した情報に還元することも可能であると考えている。 環境と自己との相互作用によって必然的に決まってい行動も情報としてみることが可能になる。

哲学的にも心理学的決定論は見られる

 心が何からできており、どこにあるのかという疑問に現代科学では全くこたえられていない。その他の人間にとっての真理を追究する重要なプロセスが哲学的なアプローチとなる。

 ベルクソンは脳には心はないため、思索によって生じた結論は、行動科学や自然科学におけるエビデンスに基づく必要は必ずしもないと考えられる。

 この考えは脳科学、生理学、心理学の行き詰まりに対する逃げ道となり、その逃げ道こそが正解である可能性もある。世界は事前に決まっいて、十分な情報があれば未来は確定していると考えることもできる。

 べクションは自分は動いていないが、自分の体が動いているように感じることで、停車中の電車の中で対面する電車が走り出すと生じるような感覚のことを言う。筆者はべクションの専門家でべクションがどのように作用するかで心の理解に迫ろうとしている。

 自分が動いているのか、世界が動いているのかを考えることは、自分が自分の行動を選択しているのか世界に選択させられているのかにつながっていく。

 古典的な哲学だけでなく、最新の哲学においても、心理学的決定論は支持されている。新実在論では実際のあるものと空想や夢の中の存在を区別しない、人ととの共通の世界は存在しないという哲学である。

 心理学的決定論はすべては事前に決まっているが、それを行うのは自分自身であるため、自分こそが神であることを認める思想になっている。

アートでも心理学的決定論は支持される

 言語では表現できないことをアートで表現し、直感的に訴え方法は古くから用いられてきた。

アートはモノや物体に縛られず、概念や考え方こそに本質があり、その物が美しくなくてもそこに投影された概念や考えからが面白ければ、美として成立する。

 アートの本質は人間の思想や思考で物体は媒体に過ぎないという考えであり、情報こそが意識で体などの実体本質がないとする心理学的決定論と同じ態度といってよい。

 多くの芸術家は世界の主体が意識であり、モノは客体であることに気づいたうえで作品を作っていると筆者は考えている。

 意識とは情報で生命は情報を増やすために配置された存在

 この世の本質は情報であり、生命も情報を増やすために配置された存在に過ぎない。心理学、生理学、脳科学、AI、哲学。アート、文学と一貫して心理学的決定論を支持している。

 人間は環境との相互作用によって、全自動的に行動を紡ぎ出されている。アプローチは違っても本質が心理学的決定論であるため、様々な分野で同じ結論が得られる。

 心理学的決定論を信じるとどんなに頑張っても結果が変わらず、退廃的な感情をもたらしかねない。しかし、未来が決まっていても美しさがなくなるわけではない。

 心理学的決定論は絶望ではなく、ある種のセーフティーネットとして希望になり得る。ものすごくつらいことがあってもあらかじめ決まっていたことと考えられれば少しは気持ちが軽くなるかもしれない。

 地動説や進化論は世界の見方を変え、人間だけが特別であるという慢心的な特権意識を失わせた。心理学的決定論も同じように自由意志という特権意識を失わせることにつながっていく。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました