要約
平成が終わり、令和が始まったが失われた30年が終わったわけではない。
筆者はオリンピックに反対の対場ではあったが、参加型の開会式や協議中継、オリンピックとパラリンピックの融合など未来を感じさせることを目的とした提案を行った。
しかし、この提案は一部の関係者にしか話題にならなかった。話題となったのはエンブレムの盗作疑惑や国立競技場の膨大な予算などであった。
筆者は誰もが・・ではないという否定を欲しがり、・・であるという提案を望んでいないことを痛感した。
平成は失敗したプロジェクトであり、それは政治と経済の2つのプロジェクトである。政治では2大政党の導入に失敗し、自民党の一党支配は盤石となり、経済では21世紀型の情報産業への転換に失敗し、世界から見て相対的に大きく後退した。
平成の政治の失敗は著名な人物を利用したテレビポピュリストの限界を示している。テレビポピュリストは人気が長続きせず、一党支配を覆すには至らなかった。
SNSを用いたデモや活動が注目されたが、中続きしないという意味では、テレビポピュリストの利用と変わらなかった。
インターネットは2つに分断されている
現在のインターネットはワイドショー的に誰かをたたくために利用する人と、世界の複雑性から目を背け、単純化し不安から逃れるため、ヘイトスピーチやフェイクニュースの拡散を行っている人の2種類に分かれている。
どちらも物を考えないで済むようにインターネットを使用している。
トランプの勝利は境界の無い世界への反発が要因
2016年トランプの大統領選での勝利はグローバル化した境界の無い世界に住む人へ境界にある世界に住む人がアレルギー反応を噴出させた結果。
世界を単一の市場としてみる境界の無い世界が急速に拡大しているが、そのような社会に適応できない人も多く残されているため、分断が起きている。
適応できな人たちはトランプの壁を作れという発言を支持し、境界の無い世界に抵抗しようとした。
境界の無い世界の人たちは境界をなくし、世界の経済を成長させればパイが増え全員にいきわたるはずと考える。
しかし、トランプを支持する人たちは真実を語るから支持するのではなく、魅力的なウソをついているから支持している。多くのフェイクニュースも正確だと思い信じるのではなく、信じたいから拡散される。
二つの分断の本質的な違いは世界を素手で触れているという感覚の有無
グローバル化した社会で自分たちの仕事が市場を通じて世界を変える可能性を信じられるかどうかが
世界に素手で触れているという感覚につながる。
国家よりも市場、政治よりも経済が人々に与える影響が大きくなった社会では、民主主義は分断をあおる制度でしかなくなってしまう。
民主主義を半分あきらめて守る
境界の無い世界を拡大していく必要があるのは間違いないため、徐々に人々を適応させていくしかない。適応できない人々が不満のはけ口に政治を利用するインセンティブを下げることでしか、民主主義を守ることはできない。
そのために筆者は3つの提案をしている。
・民主主義と立憲主義のバランスを後者に傾ける
立憲主義で民主主義の暴走を防ぐ。
・情報技術を用いた新しい政治参加の回路を作る
従来の政治参加は投票とデモなどの市民活動しかなかった。選挙は大衆受けを狙ったものにしかならず、市民活動は意識の高い市民の自分探しの域を出ていない。
しかし、インターネットはこの中間にアクセスできる可能性を秘めている。
自らの仕事や経験を活かした政策立案をインターネットで行うことで他者と議論することなどは
これまでの大衆や市民としての政治とは違う形で政治に参加することとなる
・良質なメディアを遅いインターネットで構築する
インターネットの発展は他人の物語から自分の物語への変化を促した
工業社会から情報社会への移行は価値の中心をモノからコトに移行させた。CDは売れなくなり、フェスや握手会の価値があがったことなどがことへの移行の象徴といえる。
本や映画など虚構の世界が弱体化したことによって仮想現実から拡張現実へとトレンドが移っている。情報技術がここではないどこかを構築するためではなく、ここを豊かにするため=拡張現実に利用されるようになっている。
これまで世界とつながっている実感は特定のコミュニティで物語を共有することで得ていた。拡張現実の広がりで多くの人が自分の物語の延長線で世界つながっていくことをGoogleも検討しているがうまくいっていない。
他人の物語から自分の物語への移行だけではうまくいかない
他人の物語から自分の物語への以降はテレビとインターネットの関係でもある。他人の物語を見るテレビから、自分の物語を発信するインターネットへ移行しているがそれだけでは世界の問題を解決には至っていない。
自分の物語か他人の物語かだけではなく、日常か非日常という軸で考える必要がある。
非日常×他人の物語は劇映画やニュース映画
日常×他人の物語はテレビの世界
非日常×自分の物語は現在にインターネットの世界となっている。
日常×自分の物語という領域がフロンティアとして残っている。この領域へのアプローチこそが暗礁に乗り上げた民主主義を再生しうる。
日常の延長線上、人々の日々の働きの延長線に政治への回路を創設することが民主主義を守る手段となる。この思想を半世紀ほど前から考えていたのが吉本隆明という思想家である。
吉本隆明は全てのイデオロギーからの自律を目指した
吉本隆明の思想のキーワードは自立である。イデオロギーによる思考停止を防ぐためにあるゆるイデオロギーから自立することを重要視していた。
彼はその著作に中で人間が世界を認識するために3つの幻想が機能すると主張した。
3つの幻想とは自己幻想、対幻想、共同幻想。
自己幻想:自己像
対幻想:1対1の関係についてどのような関係かを信じる幻想
共同幻想:集団が共有する目に見えない存在
現代のインターネット上のコミュニティの基本構成はこの3つの幻想と合致している。自己幻想はプロフィール、対幻想はメッセンジャー、共同幻想はタイムラインのこと。
学生運動の失敗は共同体への幻想を強く持ち過ぎたことが要因であり、吉本は他人の物語への依存から自立することで自分の物語へ回帰することを提唱していた。
吉本の提案は日常×自分の物語への移行を狙ったものだったが、実際の社会では共同体の対象を企業や職場の団体へと移しただけで自立することは出来なかった。
吉本は高度成長で消費によって自分を表現する=自己幻想の強化による自立も考えたが消費そのものが当たりまえになることで自立させる力は失われた。現代ではモノからコトがさらに進み、消費で個人を表現することはより難しくなった。
糸井重里はモノにコトとしての側面を与えることで自律をめざした
糸井重里のコピーライターとして有名で、吉本とも交流があった。糸井は吉本をリスペクトしており、糸井のほぼ日刊糸井新聞や作り出すものは、インターネットを用いてモノとコトのバランスを取ることで自立を測ることを目指している。
あえてコトからモノに回帰することで共同幻想から自立することを目指している。モノにコトとしての側面を与えるような製品を作り出しているが、その影響は一部の人にとどまっている。
筆者はコトからモノへの回帰をせずにコトの領域に留まりながら自立する方法が遅いインターネット
にあると考えている。
また、インターネットの発展は3つの幻想を独立したものではなくしたため、自己幻想や対幻想を足場に共同幻想から独立することはできなくなっている。
SNSなどでは対幻想や共同幻想によって自己幻想を強化しており、自己幻想からの自立が最も必要に
なっている。
遅いインターネットで自分の物語にする力を強く出来る
現在のインターネットは人間に物を考えさせないものになっている。自由な発信の場として期待されたインターネットは同調圧力で息苦しさを増している。
また、自分の期待する情報だけを求め消費する動きが、フェイクニュースの拡散や陰謀論を助長している。
本来インターネットは人々の発信力を高めると期待されたが、多くの人は発信に値するものをもっていないが発信する快楽に溺れ、より愚かに安易になっていった。
このような速すぎるがゆえの欠点を克服するために遅いインターネットが重要となる。
従来の速報性に重点を置いた報道から時間をかけ、良質な報道を行うスロージャーナリズムが普及し始めている。遅いインターネットでは良質な情報の発信だけでなく、読み手のレベルアップを行っていく。
閲覧数に応じた広告収入を導入せず、読者やクラウドファンディングからの収入によって運営される。インターネットの普及は読む訓練をしないまま、書く環境を手に入れることを可能にしてしまい、
質の低下を招いてしまった。
書くために読むことが必要であることを認識させることで、書く=発信の質を高めることを目指している。
報道は他人の物語、事実に一面を伝えるもの、その事実の一面と自分との関係性を考える行為が批評となる。批評は報道の他人の物語を解釈し、自分の物語として再発信することであり、与えられた問いにYesかNo、共感するかしないかといった2者択一でない発信をすることを可能にする。
これまでは他人の物語を受け取り、非日常に感情移入してきたが、非日常の他人の物語をどう日常の自分の物語としていくかが重要であり、自分の物語とする力がないと速いインターネットに流されてしまう。
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