この記事で分かること
- 分析の方法:ラマン分光法と高精度レーザースキャンを組み合わせ、複数のプラスチック片の材質を一括分析します。
- ラマン分光法とは:物質にレーザー光を照射し、発生する微弱な「ラマン散乱光」を解析することで、その物質固有の分子振動や化学構造を特定する非破壊分析法です。
- 黒いプラスチックが分析しにくかった理由:従来のプラスチック選別機で主流だった近赤外分光法では、黒いプラスチックに使用される着色剤であるカーボンブラックが光を吸収したり、熱に変換しまい測定は難しくなっていました。
- ラマン分光法では測定可能な理由:散乱現象を利用しているため光の吸収を受けにくく、測定が可能になりました。また、TR-A100のような最新のラマン分光装置では、比較的低出力のレーザーでも十分なラマン散乱光を検出できるようになったため、熱の影響も減少しています。
キヤノンのプラスチック分析装置
キヤノンは、2025年6月19日より、卓上型プラスチック分析装置「TR-A100」の受注を開始しました。
https://corporate.jp.canon/newsrelease/2025/pr-0619b
この装置は、リサイクル業界が抱える課題、特に判別が難しい黒色プラスチックを含む多様なプラスチック片の材質を、簡単かつ高精度に判別できる画期的な技術を搭載しています。
どのように分析を行うのか
キヤノンの卓上型プラスチック分析装置「TR-A100」は、主に以下の技術と手順でプラスチックの材質分析を行います。
- ラマン分光法 (Raman Spectroscopy) の活用:
- TR-A100の核となる技術は、ラマン分光法です。これは、物質にレーザー光を照射した際に発生する「ラマン散乱光」を解析することで、その物質の化学構造に関する情報を得る分析手法です。
- プラスチックの種類によって、分子構造が異なるため、発生するラマン散乱光のパターン(スペクトル)もそれぞれ異なります。TR-A100は、この異なるスペクトルを識別することで、プラスチックの材質を特定します。
- 高精度ガルバノスキャナーによるレーザースキャン方式:
- 複数のプラスチック片をトレイに並べてセットすると、TR-A100はキヤノン独自の高精度ガルバノスキャナーを用いて、プラスチック片の一つひとつに自動でレーザー光を照射します。
- このスキャン方式により、複数の異なるプラスチック片を一度に、かつ迅速に分析することが可能です。
- 特に、従来判別が難しかった黒色プラスチックについても、キヤノンの先進的なレーザー制御技術により、熱ダメージを最小限に抑えながら必要な計測時間を確保し、高精度な判別を実現しています。
- 分析手順の簡便さ:
- 測定したいプラスチック片をトレイに並べてセットするだけで、装置が自動でレーザー照射点を決定し、測定を開始します。
- プラスチック片を測定部に押し付けたり、平らな面に加工したりといった前処理の手間がほとんどかからないため、ユーザーの習熟度にかかわらず、誰でも簡単に使用できます。
- 結果の表示と出力:
- 識別結果は画面上にリアルタイムで表示されます。
- Excel形式でのレポート出力も可能で、多点計測機能と合わせて、リサイクル工程における品質確認や検査効率の向上に貢献します。
要するに、TR-A100は、レーザー光をプラスチックに照射して得られる固有の「光の指紋(ラマン散乱光)」を、キヤノン独自の精密なスキャン技術と解析技術で読み取り、その情報を基にプラスチックの材質を瞬時に、かつ高精度に判別する、という仕組みになっています。

キヤノンの「TR-A100」は、ラマン分光法と高精度レーザースキャンを組み合わせ、複数のプラスチック片の材質を一括分析します。レーザー照射で得られる「光の指紋」を解析し、黒色プラスチックを含む多様な材質を簡単・高精度に特定。リサイクル工程の効率化と品質向上に貢献します。
ラマン分光法とは何か
ラマン分光法(Raman Spectroscopy)は、物質にレーザー光を照射し、その際に発生する「ラマン散乱光」と呼ばれるごくわずかな散乱光を分析することで、物質の分子構造や化学結合、結晶構造に関する情報を得る分析手法です。
原理
- レーザー光の照射: 物質に単一波長の強いレーザー光を照射します。
- 光の散乱: 物質中の分子にレーザー光が当たると、光の一部が分子と衝突し散乱されます。
- レイリー散乱光: ほとんどの光は、入射光と同じ波長で散乱されます。これを「レイリー散乱」と呼びます。
- ラマン散乱光: ごくまれに(100万個に1個程度)、入射光とは異なる波長で散乱される光が発生します。これが「ラマン散乱光」です。
- ストークス散乱: 分子が入射光のエネルギーの一部を吸収し、その分だけ波長が長くなる(エネルギーが低くなる)散乱光です。一般的に、ラマン分光法で解析されるのはこのストークス散乱光です。
- アンチストークス散乱: 分子が元々持っていたエネルギーを入射光に与え、その分だけ波長が短くなる(エネルギーが高くなる)散乱光です。ストークス散乱に比べて強度が弱いため、あまり利用されません。
- スペクトルの取得: 発生したラマン散乱光を分光器で波長ごとに分け、その強度を測定します。この結果をグラフ化したものが「ラマンスペクトル」です。横軸は入射光からの波数のずれ(ラマンシフト、単位:cm⁻¹)、縦軸は散乱光の強度を示します。
- 情報解析: ラマンスペクトルのピークの位置や強度、形状は、物質を構成する分子の振動や回転の状態を反映しています。
- ピークの位置: 物質の化学結合の種類や、分子の官能基の種類、結晶構造などを示します。
- ピークの強度: その化学結合の量や濃度などを示します。
- ピークの幅や形状: 結晶性や分子の配向、応力やひずみなどの物理的な情報も得られます。
メリット・特徴
- 非破壊・非接触: 試料を傷つけずに測定できます。
- 前処理がほぼ不要: 固体、液体、粉末、気体など、様々な状態の試料をそのまま測定できます。
- 水の影響を受けにくい: 水はラマン散乱光をほとんど発生しないため、水溶液中の物質の測定に非常に適しています。
- 微小領域の測定: レーザー光を絞り込むことで、ミクロンオーダーの微小な領域の分析も可能です。
- 高分解能: シャープなピークが得られるため、異なる物質の識別がしやすいです。
- ガラス容器越しに測定可能: ガラスはラマン散乱光を発生しにくいため、容器に入ったままの試料を分析できます。
デメリット
- ラマン散乱光が微弱: 入射光に対してラマン散乱光は非常に弱いため、高感度の装置や強力なレーザーが必要です。
- 蛍光の影響: 試料が蛍光を発する場合、ラマン散乱光がその蛍光に埋もれてしまい、スペクトルが得られないことがあります。
- 装置が高価: 高性能な装置は導入コストが高い傾向にあります。
応用分野
ラマン分光法は、その多様なメリットから、非常に幅広い分野で活用されています。
- 材料科学: プラスチック、ゴム、繊維、半導体、セラミックス、カーボン材料などの分析。結晶性、配向性、応力、不純物、欠陥などの評価。
- 化学: 有機化合物、無機化合物の同定、反応追跡、構造解析。
- 医薬品: 錠剤中の有効成分の分布、結晶多形、不純物分析、生分解性ポリマーの評価。
- 生命科学・バイオ: 細胞、微生物、DNA、タンパク質、脂質などの分析。生体適合性評価。
- 地質学・鉱物学: 鉱物の同定、結晶構造解析。
- 環境科学: 大気中の微粒子、水中の汚染物質の分析。
- 文化財: 絵画の顔料分析、歴史的文書のインク分析など。
キヤノンのプラスチック分析装置は、このラマン分光法を利用して、プラスチックの種類ごとに異なる「光の指紋」を読み取ることで、瞬時に材質を判別しているわけです。

ラマン分光法は、物質にレーザー光を照射し、発生する微弱な「ラマン散乱光」を解析することで、その物質固有の分子振動や化学構造を特定する非破壊分析法です。水の影響を受けにくく、様々な試料の同定・構造解析に広く利用されます。
なぜ、分子の構造の違いで、散乱光に違いがでるのか
分子の構造の違いがラマン散乱光の違いに現れるのは、以下のように分子の「振動」が関わっているからです。
- 分子の振動: 分子内の原子は、常に結合によって互いに引き合ったり、反発したりしながら、一定の周期で振動しています。この振動の仕方は、分子の構造(原子の種類、結合の種類、結合の配置など)によって固有のパターンを持っています。例えば、C-H結合、C=C結合、O-H結合など、異なる結合はそれぞれ異なる振動数で揺れ動きます。
- 光と分子の相互作用(分極率の変化): レーザー光が分子に当たると、光の電場によって分子の電子雲が一時的に歪められ、「誘起双極子モーメント」が生じます。この誘起双極子モーメントの大きさを表すのが「分極率」です。
- 重要なのは、分子が振動することで、この分極率が変化するということです。たとえば、結合が伸び縮みすると、電子の分布が変わり、電場に対する応答(分極率)も変化します。
- ラマン散乱の発生: レーザー光が入射した際に、分子が振動しながら分極率を変化させると、その分子の振動エネルギーが入射光のエネルギーに加わったり引かれたりして、散乱される光のエネルギー(=波長)が変化します。
- つまり、入射光の周波数(ν0)と分子の振動周波数(νvib)が相互作用し、散乱光の周波数が ν0±νvib となる光(ラマン散乱光)が発生します。
- 固有のラマンスペクトル: 分子の構造が異なれば、固有の振動パターン(νvib)も異なります。そのため、それぞれの分子が発するラマン散乱光のエネルギーシフト(ラマンシフト、つまり νvib の値)も異なり、これがラマンスペクトル上のピークの位置として現れます。
- 例えば、エタノールとメタノールでは、含まれる結合の種類(C-C結合の有無など)やその配置が異なるため、それぞれに特有のラマンシフトを持つピークの組み合わせが現れ、これにより両者を区別できるのです。
このように、分子の構造の違いが固有の振動パターンを生み出し、その振動パターンが光との相互作用における分極率の変化を通じて、最終的にラマン散乱光の波長シフト(ラマンスペクトル)として観測される、という仕組みです。

分子はそれぞれ固有の振動パターンを持ち、光の電場によって電子雲が歪む「分極率」が振動に伴い変化します。この変化が、入射光とは異なる波長を持つラマン散乱光を生み出すため、分子構造の違いが散乱光のスペクトルに反映されます。
黒いプラスチックはなぜ分析が難しいのか
黒いプラスチックの分析が難しい主な理由は、従来の光学的な選別方法が、黒色に着色するために使われる顔料に影響を受けるためです。
黒いプラスチックの分析が難しい理由
従来のプラスチック選別機で主流だったのは、近赤外分光法を用いるものでした。この方法では、プラスチックに近赤外線を照射し、その吸収スペクトルを分析することで材質を特定します。しかし、黒いプラスチック、特に一般的な着色剤であるカーボンブラックが多量に含まれている場合、以下の問題が生じます。
- 光の吸収: カーボンブラックは、可視光だけでなく近赤外線も強く吸収します。そのため、近赤外分光法で必要な光がプラスチックの内部まで透過・反射せず、十分なスペクトル情報が得られにくくなります。
- 熱ダメージ: 強力なレーザー光を照射しても、カーボンブラックが光エネルギーを吸収して熱に変換してしまうため、プラスチックが焦げたり変形したりする可能性があります。これにより、正確な測定が困難になるだけでなく、試料が損傷する恐れもあります。
これらの理由から、黒いプラスチックは「光では選別できない」とされ、多くの場合、マテリアルリサイクルではなく、燃焼による熱回収(サーマルリサイクル)に回されていました。
ラマン分光法を用いることで分析できる理由
ラマン分光法が黒いプラスチックの分析に有効なのは、その原理と、キヤノン独自の技術によるものです。
- 散乱光の利用: ラマン分光法は、物質からの「ラマン散乱光」を検出・解析します。これは、物質に光が吸収されるのではなく、分子との相互作用によってごくわずかに波長が変化して散乱される光です。近赤外分光法が光の吸収を利用するのに対し、ラマン分光法は散乱現象を利用するため、カーボンブラックによる光吸収の影響を受けにくい特性があります。
- 低出力での測定: 黒色プラスチックの分析では、高出力のレーザーを照射すると熱ダメージのリスクが高まります。キヤノンのTR-A100のような最新のラマン分光装置は、高感度な検出器や効率的な光学系を用いることで、比較的低出力のレーザーでも十分なラマン散乱光を検出できるように工夫されています。
- キヤノン独自の技術(トラッキング型ラマン分光技術): キヤノンは特に、「トラッキング型ラマン分光技術」を開発しています。これは、ガルバノスキャナーを使ってレーザー光をプラスチック片一つひとつに高精度に追従させて照射し、同時に発生するラマン散乱光を効率的に受光する技術です。これにより、光の照射時間や位置を最適化し、黒色プラスチックであっても必要な情報を取得できるようになっています。熱ダメージを最小限に抑えつつ、高精度なラマン散乱光を検出できる点がポイントです。
これらの理由により、ラマン分光法は、これまで判別が難しかった黒色プラスチックを含む多様なプラスチックの材質を、簡便かつ高精度に分析することを可能にしました。これは、プラスチックのマテリアルリサイクルを促進し、資源循環に大きく貢献する技術として期待されています。

従来のプラスチック選別機で主流だった近赤外分光法では、黒いプラスチックに使用される着色剤であるカーボンブラックが光を吸収したり、熱に変換しまい測定は難しくなっていました。
ラマン分光法では、散乱現象を利用しているため光の吸収を受けにくく、測定が可能になりました。また、TR-A100のような最新のラマン分光装置では、比較的低出力のレーザーでも十分なラマン散乱光を検出できるようになったため、熱の影響も減少しています。
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