訂正する力 東浩紀 要約

本の要点

要点1

日本は様々な分野で行き詰まりが起こり、改革が必要になっています。

改革が必要というと変化を嫌い避けようとする人と、一度ゼロにしてから再出発しなければと考えてしまう人が多くいます。

しかし、どちらも幼稚な発想でしかありません。成熟し、持続可能な社会とは一貫性を持ちながら変化できる社会です。

要点2

一貫性を持ちながら変化できる社会の実現には訂正する力が欠かすことができません。

自身の行為や考えが実際とズレていれば、これまで持っていた定義を変え、整合性をとっていくことはコミュニケーションに欠かせないものであり、この「じつは…だったと」訂正する能力は人間と人間社会を理解する上でとても重要なものです。

しかし、現代の日本ではこの訂正する力がとても弱くなってしまっています。

要点3

訂正する力が弱くなった背景には、余白が少ないコンテンツを好むようになったことや変化を許さない姿勢などがあります。

単純明快な意見ではなく、余剰な情報で「じつは…だった」と周囲の人に再発見させることができる土壌を作ることが訂正する力を高める方法です。

日本の社会に変化を批判し、対立しやすい環境という訂正する力が発揮しにくい環境があるのは事実です。

しかし、スタイリッシュでミニマルな文化とカラフルで大衆的な文化という極論を共存させてきたという特殊性を持っています。

極論を共存させるには、訂正する力が欠かせず、その伝統を活かすことで、訂正する力を取り戻すことができるはずです。

この本や記事で分かること

・訂正する力とは何か

・なぜ、リベラルな人々と保守の人々の議論が成り立たないのか

・訂正する力が持つ効果や身に着ける方法

停滞する日本に必要なものは何か

停滞を打破するためには、ゼロからの出発が必要と考えがちですが、

本当に必要なことは、訂正し、小さな変化を続けていくことです。

日本は訂正することができるのか

日本はぶれないことや極端の変化を好みますが、どちらも幼稚な発想です。

成熟した社会とは一貫性を持ちながら変化できる社会です。

日本の訂正する力はなぜ衰えたのか

変化を許さない姿勢と読みの単純化が訂正する力を低下させてしまいました。

なぜ、訂正する力は重要なのか

正しいとされる物も変化していくものです。

そのため、過去をしっかりと記憶し、訂正していくことは社会を正しい方向へと導くためにも欠かせません。

人間にとって、訂正する力はどんな存在なのか

人間は弱く、間違えることは避けられません。

できることは間違いを正し、反省することだけです。

訂正する力はどのように働くものなのか

訂正の本質は自分の行為や考えを俯瞰的にみるメタ思考にあります。

メタ思考で自身の行為や考えが実際とズレていれば、これまで持っていた定義を変え、整合性をとることが訂正であり、コミュニケーションに欠かせません。

人間には「じつは…だったと」訂正する能力があり、この能力は人間と人間社会を理解する上でとても重要なものです。

なぜ、リセットでは問題の解決ができないのか

歴史的にみても、長く続いた文化や慣習はリセットできるものではありません。

人間にできることは「じつは…だった」と過去を再発見し、改良、訂正して行くことだけです。

AIの発展していく中で、何が重要になるか

AIがあらゆるコンテンツを作れるようになれば、何を作ったかよりも誰が作ったのか=作家性が重要になります。

作家性を理解してもらうには、余計なものまで伝えることで、聞き手に色々な連想を引き出してもらう必要があります。

この連想を引き出すという行為はAIには不可能なため、AIの発展する社会で人間に強く求められるものです。

変化の大きい時代には、訂正する力による軌道修正でのみ、現実世界に対応できます。

単純で明快な意見ではなく、余剰な情報で「じつは…だった」と周囲の人に再発見させることが不可欠です。

日本は訂正する力を取り戻せるのか

日本の社会には変化を批判し、対立しやすいという訂正する力が発揮しにくい環境があるのは事実です。

しかし、スタイリッシュでミニマルな文化とカラフルで大衆的な文化を共存させてきたという特殊性をもっています。

極論を対立ではなく、共存させてきたという伝統を活かせば、訂正する力を取り戻せることができます。

本の要約

要約1

日本は魅力的な国ですが、様々な分野で行き詰っており、改革の必要性が叫ばれています。

日本は明治維新、戦後と2度にわたって国の形を変え、成長したという成功体験から、長い停滞を突破するにはゼロからの再出発が必要と考える人が多く、リセット願望の強い国です。

しかし、これは単純化した考えてであり、実際に今の日本に必要となるのは、過去を再解釈し、訂正し小さな変化を続けていくことです。

日本はこの変化=訂正を嫌う文化があります。この文化は政治家が誤らない、ネットでの過去の発言との矛盾での炎上、一貫していることに価値があり、変化が悪いものと捉えがちなどといった例から見ることができます。

リセットもぶれない姿勢も幼稚な発想です。訂正することのできる成熟し、持続可能な社会を実現するためには、訂正する力を持ち、一貫性を持ちながら変わっていくことが不可欠です。

しかし、現在の日本人はこの訂正する力を失ってしまっています。

人の意見は変わるものという認識を皆で共有していることは、訂正する力の土壌として欠かすことができませんが、右派と左派の政治論争にみられるように、自身も変化せず、相手の変化も許さないという姿勢によって議論が平行線になってしまうことも珍しくありません。

要約2

正しいとされることも時代によって大きく変化していくため、訂正して行こうという考えはとても重要なものです。

訂正していくとは、過去をしっかりと記憶し、訂正して行くことです。キャンセルカルチャーのように過去の過ちや間違いに正義を振りかざし、大騒ぎして忘れてしまうことは訂正の対極にある行動といえます。

人間は弱く、間違えることを避けることはできません。だからこそ、できることは間違いをただし、反省することです。

現在の日本で訂正する力が弱くなっているのは、メッセージやコンテンツの外部を想像する力がなくなっているためです。余白、余剰の部分をそぎ落としたコンテンツが好まれていることで、読みが単純化してしまっています。

訂正は誰もが日常的にやっていることです。自分が無意識にやったことに違和感を感じたり、距離を感じたたり、うまくいかないときに行動や考え方を変えることも訂正といえます。

つまり、訂正の本質は自分の行為や考えを俯瞰的にみる、メタ思考にあるといえます。

訂正力はあらゆるコミュニケーションや対話において欠かせないものであり、私たちはこれまでの定義を新しい定義に置き換え、これまでのイメージを修正し、新しいイメージと整合性をとることが可能です。

人間にはこのような「じつは…だった」という訂正力が備わっており、この能力によって、古くから親しんでいるものについて新しい発見ができます。

「じつは…だった」は人間と人間社会を理解する上でとても重要なものです。

要約3

「じつは…だった」という訂正力は非常に重要な能力で、新しい環境へ向かうときなどの人生の転機に必要な力です。

訂正の精神は過去との連続性を大切にすることから、保守に近いものであり、リベラルな人々には受け入れにくいものです。

リベラルな人々は過去をすべてリセットすることを理想としていますが、そのようなリセットの試みは歴史的に見ても、失敗しています。

長く続いた文化や慣習はリセットしようとしてできるものではないからこそ、訂正の発想が重要であり、私たちにできるのは「じつは…だった」という過去の再発見による改良だけです。

人工知能によってあらゆるコンテンツが生み出せるようになる時代には、どんな人が作ったのか=作家性が重要になってきます。

作家性を理解してもらうには、冗長に見えても様々なことを語ることが大事です。短い時間で相手に知識を伝えるのではなく、長い時間余計なことまで話すことで、それぞれの頭の中から色々な連想を引き出していくことができます。

このような作業も訂正する力に支えらえれており、人工知能はそのような力を持っていません。

また、自然科学が反証可能かどうかをもとにし、過去をリセットしていくのに対し、人文系の学問は訂正する力によって支えられており、過去の再発見や訂正が行われていきます。

人文系の学問は不要では?という疑問も聞かれますが、過去を修正する力の重要性の高まりとともに、人文系学問の重要性も増していくはずです。

要約4

哲学には時事と理論、実在との結びつきの3つの要素が欠かすことできませんが、最近の議論は2つの要素をしかカヴァーしていないことが多くなっています。

この3つの領域をシームレスにつなげることができるのが訂正する力の考え方です。

状況が大きく変化していく中では、訂正する力で軌道修正を繰り返していかなければ、現実に対応ですることはできなくなってしまいます。

単純で明快な意見が求められていますが、余剰な情報を出し、「じつは…だった」と周囲の人に再発見させるような環境を作ることが大事です。

ただし、立場をころころ変えたりすることが正しいわけではありません。一貫性を持ちつつ、適時修正することで、固有名を持ち、交換不可能な人となることができます。

日本でも多様性の重要性が叫ばれていますが、中々浸透していません。日本は議論が対立化しやすく、ゼロかイチか、過去を肯定するか否定するかという形になってしまいます。

しかし、多様性の議論はゼロかイチかの選択ではなく、その国の伝統を残しつつ、どうアップデートしていくかという発想が必要であり、対立化しやすく、少しでも変化すると批判されるという風土を変えていく必要があります。

訂正する力は幻想を作る力でもあり、過去の解釈を変え、現在につながるような新しい物語を作ることで、未来へ進んでいくことができます。

幻想で新しい物語をつくるというと批判が大きいものですが、永遠に正しく客観的な記述、解釈など存在しません。だからこそ、物語しかなく、訂正することで新しい物語を作り続けるしかありません。

日本は建築やファッションではスタイリッシュでミニマルなものを好む一方で、歌舞伎やアイドル文化などカラフルでキッチュ(大衆的)な美学も強く持っており、極論を共存させてきたとも言えます。極論同士での対立、分断が問題となる中で、極論の共存は大きな意味を持っています。

平和とは喧騒に溢れ、政治が欠如した状態でもあります。訂正する力には喧騒を生み出す力があり、社会の全体が一つの話題に支配されず、極論の分断に支配されない助けとなります。

極論を共存させてきた国という伝統を生かし、訂正する力を取り戻し、平和を再定義することが日本復活への道となります

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