徳川家康 弱者の戦略 磯田道史 要約

概要

大河ドラマなどで徳川家康が話題になっています。

家康は弱者として生まれた故にとった弱者の戦略があり、弱者の戦略こそが天下人となり、それを長続きすることを可能にしました。

歴史学者である筆者が、その生涯を振り返ることで、なぜ家康には信長や秀吉にできなかった長期にわたって自身と一族の繁栄の礎を築くことができたのかを知ることができる本になっています。

この本がおすすめの人

・大河ドラマを見て家康の生涯を知りたくなった人

・なぜ、家康は長期にわたる徳川家の礎を築くことができたか知りたい人

本の要約

要約1

大河ドラマの主役になるなど、徳川家康に注目が集まっています。

家康と信長や秀吉の違いは自身の勝ち取った勢力や権力を1代で終わらせずに、200年以上続く江戸幕府の礎を作ったことです。

家康が天下人となり、さらに子孫まで続く江戸幕府を後世まで続かせることができたのは、弱者として生まれ、弱者なりの戦略を用いたことが大きな要因でした。

要約2

家康の生まれた三河の東には駿府の今川氏、西には美濃の織田氏、北には武田氏と3つの強国に囲まれた非常に厳しい場所でした。

3つの強国に挟まれた家康は、外交を巧みに用いて3つの国すべてを敵に回さないようにし、孤立することを防ぐことで三河を維持していきます。

また、良いと思ったものは敵からでも積極的に学ぶことで、小国であった三河はどんどん強くなっていきました。

孤立をさけ、外から、学ぶ姿勢は小国である日本にも必要なものです。

要約3

家康は今川家に人質となっていたこともあり、今川家との関係を構築しようとしますが、今川家の儀礼や権威を重んじる今川家のやり方に疑問を持つようになります。

文化的権威で人間を支配するやり方の限界を感じた家康は力による支配を行う織田信長と同盟を結ぶこととなります。

要約4

信長と秀吉に仕え、その信頼を得ることで勢力を増す家康ですが、二人のやり方の限界も感じます。信長や秀吉のように、はかない個人が夢を求めて闘争を繰り返すものでは家来が疲れてしまい長続きするものではありません。

家康は文化的権威、力どちらの支配にも限界があることを学び、家の永続と誰もがすみわけで生きていける個人の安心のある世の中を作ろうとしました。

この考えが日本と相性が良く、根付いたため、信長と秀吉にはできなかった長い期間の統治を可能にしました。

家康の徳川家はなぜ、長く続く幕府を開くことができたのか

 大河ドラマで徳川家康が取り上げられ、多くの注目を浴びています。

 織田信長や豊臣秀吉も戦国大名として大きな成果を残しましたが、その栄華は1台限りのは短いものでした。一方で、徳川家による幕府は200年以上と長期間にわたって続くこととなりました。

 この違いは徳川家康の生涯を知ることで、知ることができます。家康は弱者として生まれた故に、天下人となり、弱者だったからこそ、子孫まで続く江戸幕府の礎を築くことができたといえます。

家康は弱者として生まれた故に天下人となり、子孫まで続く江戸幕府を開くことができました。

家康はどのようなところで生まれたのか

 家康は三河という国で生まれています。三河の東には駿府の今川氏、西には美濃の織田氏、北には武田氏と3つの強国に囲まれた非常に厳しい場所にありました。

 このような国は強国に滅ぼされるか、属国になることが多いのですが。家康の三河は強敵と戦ううちに進化し、非常に強力な国になっていきました。

家康は3つの強国に挟まれた三河で生まれました。強敵と戦う内に非常に強力な国になっていきました。

歴史上、信憑性の低い資料はどう扱うべきなのか

 歴史を考えるうえで残された資料の質は重要です。後世に残る資料の中には権力者を神格化するために尾ひれがつくような場合も珍しくありません。

 このような資料は歴史の研究では無視されがちですが、尾ひれには当時の人々の思いがこめられており、神格化や言い伝えなどで当時の人々がどう考えていたかを知ることも歴史を考える上では重要なことです。

歴史上の資料には権力者を神格化するために尾ひれがつく場合もありますが、尾ひれには当時の人がどう考えてたか、尾ひれにどんな思いを込めていたかが込められている場合もあります。

家康は少年期をどのように過ごしたのか

 家康の父広忠の時代、織田からの攻勢に苦しめられ、広忠は今川を頼り、家康を人質として出すこととなります。(広忠はすでに織田にかなりやられており、織田川につき家康を人質としたという説もあります。)

 家康は織田家で人質として2年を過ごしたのち、今川軍によって、救出され、駿府に移っています。

 桶狭間の戦いでは、今川家側として尾張南部の大高城に兵糧を運び込む仕事を成功した家康ですが、今川義元が打ち取られてしまいます。

 家康は駿府に戻るか、広忠の居城であった尾張に隣接する岡崎城に入るかで迷いますが、岡崎城で織田川の進行を食い止めることを選びます。 

 わずか19歳の家康でしたが、人質として長期間過ごしてきたため、多くを知られていなことがカリスマ性を高める働きをしたこともあり、古くからの家来に対しても高い求心力を発揮することができました。

家康は織田家、今川家で人実として長い期間過ごしてきました。

人質の期間が長かったこともあり、三河の人々は家康の幼少期をしらず、急遽三河に戻ることになった際にカリスマ性を高めることとなりました。

岡崎城に戻った家康はどうしたのか

 家康はその後、織田氏と同盟を結びますが、それによって武田家との壮絶な戦いを行うことになります。
 同盟者である織田信長の高い要求に答え、強敵武田から学ぶことで、家康とその三河の武士団は共進化をとげ、化け物のように強くなっていきました。

 家康はその外交力で周囲を囲まれた3国すべてを敵に回すようなことは絶対にしませんでした。また、良いと思ったものは敵からでも積極的に学び、積極的に学ぶ姿勢も小国に必要なことでした。 

 家康の孤立主義を避ける対外感覚と外から柔軟に学ぶ姿勢は小国である日本にも必要な姿勢になります。

家康はその後織田と同盟を結び、その高い要求にこたえる中で、強くなっていきます。

家康は孤立主義を避けること、外から柔軟に学ぶ姿勢で強くなりましたが、この姿勢は小国である日本にも必要な姿勢です。

なぜ、家康は信長と同盟を結んだのか

 桶狭間の戦いで、今川義元が撃たれ、駿府ではなく岡崎城に戻ったものの、家康は義元の後継者である氏真に伴い合戦を呼びかけますが、儀礼や権威を重んじる今川家のやり方もあり、なかなか実現しませんでした。 

 この今川家の姿勢は家康を大きく失望させ、文化的権威で人間を支配するやり方じたいに疑問を持つようになっていきます。

 家康はしばらくは今川家への義理から、織田家との闘いを行いますが、同盟を考えるようになります。織田家としても西方への進出を優先したい思惑もあり、同盟を組むこととなりました。

今川家に義元の伴い合戦を持ちかけるも、儀礼や権威を重んじる今川家から良い返事はなく、文化的権威で人間を支配するやり方の限界を感じたため、力による支配を行う織田家と同盟を結ぶこととしました。

家康は信長との同盟で何を感じたのか

 尾張の方が圧倒的に力が強かったため、同盟は不平等のものでしたが、家康は信長との同盟のために、家族を犠牲にしたり、利の少ない戦でも協力するなどして同盟を維持し続けます。

 その働きぶりから、信長からの信用を得た家康ですが、のちの秀吉も含め彼らの失敗からも学んでいます。

 信長も秀吉も自分のヴィジョンの現実化に躊躇がありませんでしたが、家来に大きな負担をかけてきました。家康は自分の経験も含み、このようなやり方では長続きしないことを学んだと考えられます。

 家康はある場所に線を引き、これ以上は他人や家臣に踏み込まないと境界線を決めていました。

 今川家の権威による支配と信長の力の支配を見ることで、その両方の限界を知った家康は、バランスの取れた棲み分けによる支配にたどり着きました。この棲み分けによる支配は日本社会によく適合し、長期にわたる支配を可能にしています。

家康は信長との同盟を維持するため、様々な犠牲を払い信頼を勝ち得ています。

しかし、信長やのちの秀吉のような力での支配にも限界があると感じ、バランスの取れた棲み分けによる支配にたどり着いています。

信長との同盟での敵は誰だったのか

 信長との同盟時に最大の敵となったのが武田信玄でした。強力な軍勢を誇る信玄に家康も大いに苦戦します。
 信玄と直接同盟を結んだことや信長が信玄と同盟を結んでいた時期もありますが。直接対決が避けれないとわかると信玄の宿敵である上杉謙信と同盟を結んでいます。

 三方ヶ原の合戦などでは、大きく敗戦しますが、武田家の戦術を学び成長していきます。

 信玄が病死したことでの武田家の混乱などもあり、長篠の戦では勝利をおさめ、武田家を滅亡させることとなります。滅亡の際に武田家の家臣などを迎えるなど有能であれば立場にかかわらず召し上げる姿勢も持っていました。

最大の敵は武田信玄でした。大いに苦戦しますが、武田家の戦術学んだこと、武田家滅亡の際にはその家臣を迎えるなど有能なものであれば立場にかかわらず登用する姿勢も持っていました。

信長の死後、家康はどうしたか

 本能寺の変で信長が死んだあとは秀吉と対立します。小牧・長手の戦いでは兵力で圧倒する秀吉相手に局所戦ではありますが、勝利しています。

 勝利したものの数の上では劣勢であり、最終的には秀吉の臣従ことにしたものの、秀吉の性格、考えを読み有利なポジションを勝ち取ることに成功しています。

 家康は秀吉によって関東の治めるように命じられます。秀吉は秀吉が西、家康が東と別れることで謀反を防ぐなどの効果があると考えていました。

信長の死後、秀吉と対立します。最終的には秀吉に従いますが有利なポジションを得ることに成功しています。

秀吉の死後、家康はどうしたか

 秀吉が朝鮮出兵で失敗したときには、家康は秀吉に怒られない範囲で、反対しています。反対をすることでほかの大名からの信頼を集めつつ、秀吉の失敗を持っていました。

 秀吉は家来の土地を増やすことで、信頼を勝ち得てきました。しかし、拡大志向はいつか限界があり、失敗すると家康は考えていました。

 実際に、秀吉の死後、家康は豊臣家の過信の中でも一大勢力となっています。

 初め家康は豊臣家を支援する姿勢を示しますが、徐々に自分の地位を利用し、反目する大名を抑えたり関ケ原の戦いや大阪冬の陣、夏の陣で勝利し、豊臣家を滅ぼしていきます。

 豊臣家を滅ぼし徳川家を安泰にさせただけでなく、征夷大将軍の座を秀忠に譲ることで将軍職が徳川家の世襲であることを示すことで徳川家による支配を盤石のモノとしています。

秀吉の晩年には徐々に各大名の信頼を得て置き、死後、一大勢力となり、豊臣家を滅亡させていきます。

将軍職が徳川家の世襲であることを示し、その支配は盤石になります。

家康は戦国時代に何をもたらしたのか

 信長や秀吉には自分の考えでどこまで人を動かせるのか、どこまで領土を拡大できるのかということが一番の目標でした。

 しかし、はかない個人が夢を求めて闘争を繰り返す戦国時代は家康によって終わりを迎えます、

 家康は家の永続と誰もがすみわけで生きていける世の中を作ろうとしました。家康は個人の安心と家の永続が万人の望むものとなったため、徳川の世は260年も続くこととなりました。

戦国時代は信長や秀吉のように、はかない個人が夢を求めて闘争を繰り返すものでした。

家康は、個人の安心と家の永続という考えを普及し、戦国時代を終わらせ、徳川が260年続く礎を作り出しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました