思考停止の罠 榎本博明 要約

本の概要

日本人は自己主張を慎み、謙虚さをもち、人を疑うのは失礼という感覚を身につけやすい傾向にあります。

これらの特性は性善説につながり、プラスの面も多く持っていますが、人の言うことに疑問をもたず、相手にまかせてしまうため、思考提示に陥いりやすいという欠点も持っています。

今の日本社会では様々な場面で、思考停止による弊害がみられています。

社会や政治で思考停止によるどんな弊害があるのか、教育の場がなぜ、思考停止を止めることができていないのか、思考停止から脱却するにはどうすればいいのかなどを知ることができる本になっています。

この本や記事で解る事

・思考停止が社会の様々な場所で見られること

・なぜ、日本人は思考停止に陥りやすいのか

・思考停止から脱却するために必要な教育や考えかた

本の要約

要約1

日本では、思考的が常態化してしまい、ちょっとでも疑問を口にするとおかしな人とみなされてしまうこともあります。

思考停止を感じる場面は様々な場面で見られます。

クレームなどを恐れるあまりの過剰な説明や何も考えなくても良いようにアドバイスするをすることが思考停止を助長しています。

また、表面的な現象だけを見て、本質的な判断できなくなるなど思考停止の弊害も多くみられています。

要約2

私たちは生まれ落ちた社会の文化にふさわしい人間に作られている傾向にあり、日本であれば、自己主張を慎み、謙虚さを身につけ、人を疑うのは失礼という感覚が身についていきます。

このような特性を持つ日本人は性善説に立つことが多く、人は疑ってはいけないと考え、交渉事で相手のペースに巻き込まれたり、騙されやすいなどの特徴にあります。

また、相手の期待を裏切りたくないという心理も強く持っています。

相手の言うことを疑わず、期待を裏切りたくないという考えは、コロナ対策を自粛だけで成り立たせるなどプラスの面もありますが、その行動が本当に正しいのか?と考えることがないため、思考停止を招きやすくなっています。

要約3

思考停止を防ぐためには、教育が重要な役割を果たしますが、教育現場も思考停止を防ぐ方向には進んでいません。

近年の教育では、知識偏重から思考力へのシフトが進んでいますが、知識を軽視するあまり、思考に必要な知識を持つことができなくなっています。

読解力、語彙力不足によって正しい知識を身に着けることができていません。

また、発信力に重きを置いた教育の推進も思考力が伴わなければ、中身の薄い内容や小さくまとまったことを自信満々に発信する人を生み出すだけになってしまいます。

知識を徐々に身に着け、少しづつ自分の視点を作ってから、発信することを学ぶ姿勢が必要です。

要約4

性善説や謙虚で人を疑わない姿勢が旅行客としては日本人が世界一と称されるなど、称賛されることがあることも事実です。

すべての考えを性悪説にする必要はありませんが、グローバル化が進む中で騙される可能性のある政治や経済の分野では性悪説に基づいて、行動することが求められています。

本来考えることは楽しいことですが、ITの発達で便利になり、考える苦痛から解放された反面、考える快楽を奪われてしまいました。

考えることの基本が疑問を持つことであることをもう一度思い出し、簡単に答えが出ないことにイラついたりせずに、考えることを楽しむ姿勢を持つことが思考停止を脱する第一歩になります。

日本の問題は何か

 日本では、思考停止が常態化し、自分の頭で考えようとし、ちょっとでも疑問を口にしたりするとおかしな人とみなされてしまいます。

 思考停止がもたらす問題は様々な場面で見られており、このままでどのような方向に向かっていくのかが不安な状態です。

日本は思考停止が常態化し、様々な場面で見らえる思考停止がどのような方向に向かうのか不安な状態です。

思考提示はどんなところで見られるのか

 思考停止がもたらす問題や疑問はあらゆる場所で見られます。

・政治家の記憶にないという発言

 問題になる言動をしていないというと偽証になりますが、記憶にないと言えばウソではありません。    しかし問題として追及されているようなことを簡単に忘れるはずがありません。

・成果主義の導入 

 異文化のシステムを導入する際には、文化的な背景を踏まえる必要がありますが、そのまま導入してしまいます。

・無駄な丁寧さ

 洗剤に飲み物ではありませんなどの注意書き、服装までアドバイスする天気予報、過剰な電車のアナウンスなど過剰な配慮は思考停止を助長しています。

・教育現場での過剰なクレームと対応する学校

 自己中心的な親からの理不尽なクレーム自体が思考停止による過剰反応によるものであり、クレームを恐れるあまり過剰反応する学校側も思考停止に陥っています。

思考は様々な場面で見られます。クレームなど指摘を恐れるあまり過剰な説明をしたり、何も考えなくても済むような過剰な丁寧さが思考停止を招いています。

日本人の特性はどのような特徴があるのか

 私たちは生まれ落ちた社会の文化にふさわしい人間に作られている傾向にあります。日本に生まれれば、自己主張を慎み、謙虚さを身につけ、人を疑うのは失礼という感覚が身についていきます。

 一方で、アメリカに生まれれば、堂々と自己主張し、はっきりと口にし、人を警戒して自分を守る姿勢を身に着けていきます。

 このことが端的に現れるのが、国語の教科書の内容です。

 アメリカの教科書には強い個人をテーマとする内容が非常に多いのに対し、日本の教科書では極めて少なくなっています。

 人間関係の描かれ方も対照的で、日本では緊張感のある人間関係や対立関係がテーマとしているものがほとんどありません。

 日本人は話したら分かってくれるといった性善説に立つ傾向にありますが、諸外国の多くでは他人は警戒すべきという性悪説になることが多く見られます。

日本には自己主張を慎み、謙虚さを身につけ、人を疑うのは失礼という感覚を持つ人が多く、性善説に立つ傾向にあります。

日本人の特性がなぜ思考停止を生みやすいのか

 日本人は性善説に立っていることもあり、人は疑ってはいけないと考え、交渉事で相手のペースに巻き込まれたり、騙されやすいなどの特徴にあります。

 また、相手の期待を裏切りたくないという心理も強く持っています。

 アメリカの小学生が勉強する動機は自分の知識が増えるなど自分のためですが、日本の小学生では両親や先生を喜ばすためという反応が多く見られました。

 相手の期待を意識し、裏切らないように行動しようとすることは自粛だけで、コロナ対策が成り立つなどのプラスの面もありますが、その行動が本当に正しいのか?と考えることがなくなってしまい、思考停止を招きます。

 この思考停止が忖度や空気を読みすぎておかしな決定に異を唱えられない、同調圧力のストレスなどの問題を生みます。

 また、人を疑うことなく、お上に任せておけば悪いようにはならないだろうというのも一種の思考停止といえます。

日本人の特性は相手の期待を意識し、裏切らないように行動しようとすることにつながります。

プラスに働く面もありますが、無批判で相手を信じたり、言うことを聞く部分があり、その行動が本当に正しいのか?と考えることがなくなり、思考停止に陥ちやすくなってしまいます。

日本の教育の問題点は何か

 若年層の読解力の低下も深刻です。

 ネット上でのSNSによるごく短いやり取りが中心になっていることで日本語の意味が理解できない、語彙力がなく言葉を知らないなど、国語力の低下が深刻化しています

 読書量の減少、視覚に訴える教材の増加、実用性の重視によって思考力を鍛える学習の減少などは読解力の低下を招いています。

 また、知識偏重から脱却し、思考力を重視した教育にシフトすべきという声も多く聞かれますが、今の日本の教育は知識軽視になっています。

 知識を軽視すれば、言葉を知らず、言葉を知らなければ考えることはできず、思考力が高まることはありません。

 また、発信を中心にした教育も推進されていますが、思考する力がなければ、薄っぺらいのに自信満々な思考停止状態の人間を量産してしまいます。

識偏重から脱却し、思考力を重視した教育にシフトしていますが、知識を軽視するあまり、思考に必要な知識を持たない状態になってしまっています。

思考停止は政治にどのような影響を与えているのか

 日本人の思考停止は政治への姿勢にも表れています。

 政府が決めた政策にどんな不満を持っても、抗議や暴動に発展することは滅多にありません。自分の生活に問題が生じても動きをとらず我慢してしまったり、現状維持を望む姿勢も一種の思考停止といえます。

 性善説や謙虚で人を疑わない姿勢が旅行客としては日本人が世界一と称されるなど、称賛されることがあることも事実です。

 すべての考えを性悪説にする必要はありませんが、グローバル化が進む中で騙される可能性のある政治や経済の分野では性悪説に基づいて、行動することが求められています。

政府が決めた政策にどんな不満を持っても、抗議や暴動に発展することは滅多にありません

すべての考えを性悪説にする必要はありませんが、グローバル化が進む中で騙される可能性のある政治や経済の分野では性悪説で考える必要があります。

教育はどう変化すべきか

 近年、知識偏重から思考力への脱却が教育界で論じられています。

 知識を吸収することを軽視する風潮がありますが、知識不足による弊害が様々な場面で見られています。

 物事を考えるためには、自分なりの視点が欠かせませんが、自分の視点を持つためには、知識や教養の吸収は不可能で、知識が思考の邪魔になるという視点は全くの誤解です。

 ネットに情報があふれている時代には、検索出来れば知識は不要とする声もありますが、情報から何を読み取り、どう生かすかには知識や教養を背景とした視点を持っていることが不可欠です。

 読書や新聞による多様な視点の獲得や語彙力の向上による自分の内面の言語化などの効用を踏まえて、読書習慣の形成を促すことが求められています。

 また、発信力に重きを置きすぎることも避けるべきです。発信するためには、知識を体系化することが必要ですが、体系化を急ぎすぎると小さくまとまった世界が頭の中で出来上がってしまいます。

 知識を徐々に着け、少しづつ自分の視点をつくっていくべきであり、中身が充実しないうちに無理やり自分に視点を固めたり、発信するのでなく、まずはじっくり吸収するような教育が必要です。

思考力向上に必要な知識不足と発信力への偏りが問題です。知識を徐々に着け、少しづつ自分の視点をつくってから発信することを学ぶべきです。

考えるとは何か

 本来考えることは楽しいことですが、様々な要因で刺激を受けやすくなった我々は徐々に、物事をじっくり考えることなく、反応するようになり、思考停止になってきています。

 ITの発達で便利になり、考える苦痛から解放された反面、考える快楽を奪われてしまいました。

 考えることに基本は疑問を持つことです。些細なことでも、疑問を持ち、物事を複眼的にみて別の視点からどのように見えるか想像力を働かせることが思考停止を脱する方法になります。

 簡単に答えが出ないことにイラついたりせずに、あれこれ考えることを楽しむ姿勢が思考停止を脱する第一歩です。

考えることに基本は疑問を持つことです。考えることは楽しいことであることを思い出し、簡単に答えが出ないことにイラついたりせずに考えることを楽しむ姿勢で思考停止を脱する第一歩とすることができます。

コメント

タイトルとURLをコピーしました