この記事で分かること
- ラマン分光とは:物質にレーザー光を照射し、分子振動によってエネルギーが変化した散乱光(ラマン効果)を分析することで、分子構造や組成を特定する手法です。
- 水の吸収が少ない理由:ラマン分光は分子の分極率の変化を検出しますが、水分子の振動は分極率の変化が非常に小さいため、ラマン活性が低く、強い散乱光(吸収)をほとんど示さないからです。
- 用途:水溶液や生体試料の分析が可能です。また、IRで不活性な対称性の高いC=CやC=C、カーボン材料の構造分析に特に有効です。
ラマン分光
機器分析とは、化学反応を用いる古典的な化学分析に対し、物質が持つ物理的・化学的性質を精密な機器で測定し、その物質の成分や構造を分析する方法の総称です。
高感度で迅速な分析が可能であり、微量な成分や複雑な混合物も精度高く分析できるため、現代の科学技術分野で広く利用されています。
分光分析とは何か
分光分析は、光と物質の相互作用を測定する手法です。紫外可視分光光度法で濃度、赤外分光法で構造、原子吸光分析法で金属元素の定量、蛍光X線分析法で元素組成、核磁気共鳴分光法で分子構造の解析など、使用する光の種類や原理によって多岐にわたります。
ラマン分光とは何か
ラマン分光(Raman Spectroscopy)とは、物質に光を照射し、その際に生じる散乱光のエネルギー変化を観測することで、物質の分子構造や組成を分析する手法です。
原理と仕組み
ラマン分光は、赤外分光(IR)と同様に分子の振動状態を分析しますが、その原理は光の吸収ではなく光の散乱を利用しています。
1. ラマン効果
試料に単色のレーザー光(通常は可視光、近赤外光)を照射すると、ほとんどの光は波長を変えずにそのまま散乱されます(レイリー散乱)。しかし、ごく一部の光は、分子の振動によってエネルギーを失ったり(または得たり)して波長が変化します。この現象をラマン効果と呼びます。
2. エネルギー変化とスペクトル
散乱光のエネルギーの変化分は、分子の振動エネルギー(振動の周波数)に対応しています。
- ストークス線(エネルギー減少): 入射光よりもエネルギーが小さく(波長が長く)なった散乱光です。分子が光からエネルギーを受け取り、低い振動準位から高い振動準位へ励起されたときに生じます。これがラマンスペクトルの主要なシグナルとなります。
- 反ストークス線(エネルギー増加): 入射光よりもエネルギーが大きく(波長が短く)なった散乱光です。分子が元々持っていた熱エネルギーを光に与えたときに生じます。
3. IRとの違い(選択律)
IRが双極子モーメントの変化を伴う振動を検出するのに対し、ラマン分光は分子の分極率(電子雲の歪みやすさ)の変化を伴う振動を検出します。
- この違いにより、対称性の高い非極性結合(例:C=CやS-Sの対称伸縮O2やN2)はIRでは不活性ですが、ラマンでは強く観測される傾向があります(交互禁制則)。
ラマン分光のメリットと用途
ラマン分光は、特に以下のようなメリットを持ち、幅広い分野で利用されています。
- 水の吸収がない: 水はIRでは強い吸収を示しますが、ラマンでは非常に弱く、水溶液や生体試料の測定に非常に適しています。
- 試料の前処理が簡単: 透過法のように薄片化する必要がなく、ガラス容器越しでも測定が可能です。
- 微小領域分析: ラマン顕微鏡として利用でき、光を細かく絞ることで、数μm程度の微小領域の分析が可能です(顕微FT-IRと同様)

ラマン分光は、物質にレーザー光を照射し、分子振動によってエネルギーが変化した散乱光(ラマン効果)を分析することで、分子構造や組成を特定する手法です。IRとは異なる結合の情報を得られます。
なぜ、水の吸収がないのか
ラマン分光分析において、水の吸収が非常に弱い(事実上「吸収がない」と見なせる)理由は、ラマン分光の検出原理が水の分子特性と相性が悪いためです。
水のラマン活性が低い理由
ラマン分光は、分子の振動によって分極率(電子雲の歪みやすさ)が大きく変化する結合を強く検出します。
- 水の結合の極性:
- 水分子は、極性の高いO-H結合を持ち、大きな永久双極子モーメントを持っています。
- O-Hの伸縮振動は、大きな双極子モーメントの変化を伴うため、IR(赤外分光)では非常に強く吸収されます。
- 水の分極率の変化の小ささ:
- ラマン分光が検出する分極率は、主に結合の電子雲の広がりや対称性に関わります。
- 水分子のO-H結合が伸縮しても、結合が大きく変形したり、電子雲が大きく歪んだりするような分極率の大きな変化は伴いにくいです。
- そのため、水分子の振動はラマン効果を引き起こしにくく、ラマン活性が非常に低い、つまり非常に弱い散乱光しか生じません。
IRとRamanの対比
| 項目 | 赤外分光 (IR) | ラマン分光 (Raman) |
| 検出原理 | 双極子モーメントの変化 | 分極率の変化 |
| 水分子 | 双極子モーメントの変化が大きい → 強い吸収 | 分極率の変化が小さい → 弱い散乱 |
実用上のメリット
水がラマン活性を示さないことは、分析において大きな利点となります。
- ガラス容器越しに測定可能: 水溶液を入れたガラス製の容器は、IR光を吸収しますが、ラマンの励起光(通常は可視光)に対しては透明なため、そのまま測定が可能です。
- 水溶液の分析: 生体試料(タンパク質や核酸など)や、水に溶かした化学物質を分析する際、溶媒である水自身が強いシグナルを出さないため、目的の溶質の弱いシグナルを鮮明に観測できます。

ラマン分光は分子の分極率の変化を検出しますが、水分子の振動は分極率の変化が非常に小さいため、ラマン活性が低く、強い散乱光(吸収)をほとんど示さないからです。
どんな用途があるのか
ラマン分光分析が特に有効な用途、すなわち通常のIR(中赤外分光)では測定が難しい、または不利になる試料の分析用途は以下の通りです。
水溶液・生体試料の分析
これがラマン分光の最大の強みであり、IRで測定が難しいものの代表例です。
- IRの課題: 水はIR光を強く吸収するため、水溶液を透過法で測定する場合、溶媒の吸収が強すぎて目的とする溶質(タンパク質、DNA、化学物質など)の弱いシグナルが完全に隠されてしまいます。
- ラマンの利点: 水分子の振動はラマン活性が非常に低いため、水のシグナルがほとんど出ません。これにより、生きた細胞や水溶液中の微量な物質の構造変化、相互作用をクリアに分析できます。
対称性の高い結合の分析
IRとラマンの選択律の違い(交互禁制則)を活かす分野です。
- IRの課題: O2やN2などの等核二原子分子や、R-C=C-Rのような対称性の高い結合は、振動しても双極子モーメントが変化しないためIRでは不活性(検出不可)です。
- ラマンの利点: これらの結合は、振動することで分極率が大きく変化するため、ラマン分光では強いシグナルとして観測されます。
- 例: 炭素-炭素二重結合(C=C)や硫黄-硫黄結合(S-S)などの対称伸縮振動、ダイヤモンドやグラファイトの構造分析。
カーボン材料・高分子材料の分析
- カーボン材料:
- ダイヤモンド、グラファイト、カーボンナノチューブ、グラフェンなどの分析に不可欠です。これらの炭素骨格の振動はラマンで非常に強く検出されます。
- 特に、構造の結晶性、欠陥(Dバンド)、サイズ(Gバンド)といった構造的情報を非破壊で評価できます。
- 高分子材料:
- S-S結合の解析(ゴムの加硫状態など)や、配向性(分子が一定方向に並んでいるか)の評価に利用されます。
微小領域・異物分析
ラマン顕微鏡としての機能が重要です。
- 前処理の簡便さ: 試料を薄膜化するなどの前処理が不要で、ガラス容器や透明なカプセル越しに測定が可能です。
- 高空間分解能: FT-IR顕微鏡と同様に、レーザー光を絞り込むことで数μm程度の微小領域の分析が可能です。異物や製品の欠陥部のピンポイント分析に優れています。
その他の特殊用途
- 高温・高圧下測定: 光ファイバーやガラス窓を利用したセルを用いることで、特殊な環境下(高温・高圧下)での物質の相変化や反応をその場でモニタリングできます。
- 無機物分析: 酸化物や結晶など、無機物質の結晶構造や格子振動の解析に優れています。

ラマン分光は、水溶液や生体試料の分析が可能です。また、IRで不活性な対称性の高いC=CやC=C、カーボン材料の構造分析に特に有効です。

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