目的への抵抗 國分功一郎 要約

本の概要

哲学にはどんな意味があるのかと思う人は多いと思います。

本書では、哲学の視点から現在の日本や世界の抱える問題を示しています。

コロナ渦での私権制限を我々は何のためらいもなく、受け入れてしまいましたが、そこにどんな問題があったのか、すべてのことに目的がなければならないという考えはどこがおかしいのか、目的と自由はどうかかわっているのかなどを考える手助けになる本になっています。

この本がおすすめの人

・哲学とはどんなものか知りたい人

・コロナによる私権制限に疑問を持っている人

・目的を追い求めることに疲れた人

技術の発展における哲学の重要性を説いた「いま世界の哲学者が考えていること」の要約はこちら

本の要約

要約1

世の中の問題にはテンプレのような賛成と反対のパターンが決まっていますが、哲学には世の中にあふれているテンプレが見落としている論点を見やすくしたり、紋切り型の思考から距離をとることができる力があります。

哲学は問いに答えを見つけるのではなく、問い自体も考える学問であるため、テンプレ型の思考から距離をとることができるようになります。

要約2

コロナ渦でのロックダウンなどの緊急処置に対し、哲学者であるアガンベンは「平常心を失った不合理的で根拠のないものである」と指摘しました。

この指摘には多くの批判が集まりましたが、アガンベンはパンデミックを軽視していたのではなく、緊急性と私権制限によるマイナスを天秤にかけたときに私権制限によるマイナスの方が大きいのでは?という疑問や行政権力が立法権力を凌駕してしまうような例外状態を許しすぎてしまうことへの問題提起でした。

私権制限を当然のものとして、受け入れていた私たちをチクリと刺し目覚めさせるようなものであり、哲学には社会を目覚めさせるような役割も果たしています。

行政が決めるほうが効率的というのは独裁を認めてしまうことであり、失った権利を取り戻すことが難しいことは常に意識しておくべきです。

要約3

必要なことには必ず目的がありますが、人類は生きるうえで、必要のないものを贅沢と呼び、贅沢を享受する浪費によって充実感を得てきました。

目的からはみ出した部分=贅沢こそに人間らしさがあるとも言えます。

コロナ渦で不要不急のことを行わないようにと言われてきましたが、それ以前からあらゆるものを目的に還元してしまい、目的からはみ出したものを認めようとしない社会になりつつある傾向がみられていました。

要約4

動機づけ、目標、目的といった要因なく、ただその行為や過程を楽しんでいる状態が自由と呼ばれる状態です。

我々の生活から目的がなくなることはありませんが、あらゆるものを目的に還元してしまえば、自由はなくなってしまいます。

目的から離れ、自由に活動に取り組むときに感じる喜びこそが人間らしさであり、目的からはみ出した部分にある自由と贅沢に人間らしさが詰まっていることを意識し、すべてを目的合理性に取り組むことを避けることが重要です。

哲学にはどんな意味があるのか

 世の中の問題にはテンプレのような賛成と反対のパターンが決まっています。

 テンプレがある議論では、自分で問いを立てる必要はありませんが、哲学はあらかじめある問いに答えを見つけるのではなく、問い自体も考える学問です。

 そのため、哲学には世の中にあふれているテンプレや紋切り型の思考から距離をとることができるようになります。

 哲学によって、自ら問いを考えることで、テンプレが見落としている論点を見えやすくする効果もあります。

哲学には世の中にあふれる思考から距離をとることで、新しい視点を得る力があります。

ロックダウンを根拠がないとした哲学者の真意は何だったのか

 コロナ渦でのロックダウンなどの緊急処置に対し、哲学者であるアガンベンは「平常心を失った不合理的で根拠のないものである」と指摘しました。

 この指摘は我々が権利制限をためらいもなく受け入れていることへの疑問からなされたものです。

 行政権力が立法権力を凌駕してしまうような例外状態が長く続くことや権利制限が終わらないこと懸念がアガンベンの根底にありました。

 この発言には多くの反論が寄せられました。多くは緊急性の高い状態ではある程度の私権制限はしかたないのではという反論でした。

哲学者であるアガンベンはロックダウンなどの私権制限は行政権力が立法権力を凌駕してしまう例外状態への懸念を持っていたため、批判を行いました。

アガンベンの発言にはどんな意味があったのか

 緊急性と私権制限によるマイナスを天秤にかけたときに私権制限によるマイナスの方が大きいのでは?という発言は、私権制限を受け入れていた私たちをチクリと刺し目覚めさせるようなものでした。

 哲学には社会に対し虻のようにチクリと刺し、目覚めさせるという役割があります。

 特に移動の自由は支配と服従から逃れるために必要なものであり、どんなに緊急性が高い状態でも移動の自由に制限をかけることには慎重であるべきです。

アガンベンの発言には緊急性と私権制限を天秤にかけたときに、私権制限によるマイナスのほうが大きいのではという指摘です。

私権制限を疑問なく受け入れてきた私たちをチクリと刺すような意見であり、哲学にはこのようにチクリと刺し目覚めさせる役割があります。

なぜ、行政権力の力が大きくなりやすいのか

 3権分立がなされていても、行政権の権力は強くなりがちです。立法権はルールを定めることはできますが、法律で定めることには限界があり、個別の内容をきめることはできません。

 そのため、実際に個別の内容に対して執行を行う行政は大きな力を持つようになります。

 行政権が立法権を凌駕した最悪のケースがナチスドイツです。当時のドイツでも行政権が徐々に強くなり、国民も例外状態になれてしまいました。

 その結果、行政権が立法権をも獲得し、ナチスによる独裁が起こっています。

 アガンベンはこのような経緯から行政権の拡大による私権制限に疑問を投げかけています。 

ルールを決める立法府よりも、個別の内容に対して執行をおこなう行政権力の力は大きくなりがちです。

行政権力の暴走の最悪のケースがナチスドイツです。は例外状態に人々が徐々に慣れてしまったことで独裁政権を生み出してしまいました。

行政権力の拡大をどう捉えるべきか

 行政の権力拡大はコロナ前から見らえれています。

 社会の変化が早い状態では、迅速な対応が求められます。

 立法権を持つ議会で議論をするよりも行政権力が物事を決めるほうがスピーディーな面があるため、行政権力への権力集中が起きています。

 しかし、行政が物事を決めるほうが効率的ということでは、独裁を認めることにも等しくなってしまいます。

 失った権利を取り戻すことが難しいことを意識し、行政の拡大というものを考えていくことが大事です。

 ただし、行政権力を悪と決めつけて悪者を明確に仕立てるという考えにも警戒が必要です。人々が私権制限を受け入れ、自由を簡単に捨てようとしていることのほうが大きな問題です。

行政が決めるほうが効率的というのは独裁を認めてしまうことになります。

失った権利を取り戻すことが難しいことを意識して、行政の拡大と向き合うべきです。

必要と目的、贅沢、浪費はどのような関係にあるのか

 コロナ渦では、不要不急のことをおこなわないようにという要請がなされてきました。

 必要といわれることには必ず、何かの目的を持っており、必要の概念と目的の概念は切り離すことができないものです。

 人類は生きるうえで必要がなく、目的のない行為を贅沢と呼びようにになりました。

 贅沢を享受することを浪費をすると、人類は浪費を通じて豊かさを感じ、充実感を得てきました。

 しかし、20世紀になって人類は新しい概念として消費という概念を作り出しました。

必要といわれることには必ず、目的があります。

人世で生きるうえで、必要がなく、目的にないものを贅沢と呼び、贅沢を享受する浪費によって人類は豊かさを感じてきました。

消費と浪費の違いは何か

 浪費や贅沢の対象はものであり、必要を超えたものであるため、終わりがあります。しかし消費には対象がものでないため終わりがありません。

 グルメブームでいえば、店に行き食べることは浪費ですが、店に行って写真を上げるなど店に行ったという概念や情報を重視することが消費ということができます。

 浪費で我々を贅沢を楽しむことができますが、消費では我々は終わりのない競争をさせられています。

 終わりのない消費社会が環境問題を持たしてきましたが、浪費はどこかで満足して終わるものです。贅沢で楽しみや豊かさを取り戻すことで大量生産、消費、廃棄の悪循環に亀裂を入れることができる可能性もあります。

浪費はものを対象にしており、必要を超えたものであるため終わりがあります。

消費はものを対象にしていないため終わりがありません。

消費では贅沢を楽しむことができず、終わりのない競争をさせられてしまいます。

現代社会は贅沢をどう捉えているのか

 贅沢の本質は目的からの逸脱があります。食事の目的は栄養摂取ですが、食事=栄養摂取ととらえてしまえば人間らしさは失われてしまいます。

 目的からはみ出した部分=贅沢こそに人間らしさがあるとも言えます。

 現代社会はあらゆるものを目的に還元してしまい、目的からはみ出すものを認めようとしない社会になりつつあります。

 コロナでの不要不急も目的からはみ出したことを行わないようにという要請でしたが、贅沢を排除する風潮はもともと社会に内在していたものが、コロナ渦で見えてきただけかもしれません。

贅沢の本質は目的からの逸脱であり、目的からはみ出した部分に人間らしさがあるといえます。

しかし、現代社会はあらゆるものを目的に還元し、はみ出すものを認めないように変化しています。

自由とはにか

 目的という概念はそれを成し遂げるための手段を正当化し、手段の正当化は必ず何らかの犠牲をもたらします。

 ある行為を行う際に多くは、動機づけ、目標、目的といった要因があります。このような要因がなく、ただその行為や過程が楽しい状態が自由と呼ばれる状態です。

 また、初めはある目的があっても、行っているうちに目的を超えてくる活動は遊びとなります。

 自由で遊ぶことで結果的に充実感を得ている状態になることができれば、大切で貴重な経験となります。

 充実感を得るために行動している状態との見分けは難しいですが、二つの違いは非常に重要なことです。

動機づけ、目標、目的といった要因なく、ただその行為や過程を楽しんでいる状態が自由と呼ばれる状態です。

自由に行う活動は遊びであり、自由で遊ぶことで結果的に充実感を得ることができれば、大切で貴重な経験となります。

我々は目的とどのように向き合っていくべきか

 我々の生活から目的が消えることはありません。

 問題はあらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒することです。

 目的から一時的に離れ、自由な活動に真剣に取り組むとき感じる喜びこそが人間らしさといえます。

 不要不急に対し、無駄なことも必要という反論がされました。この反論にも意味はありますが、無駄という考え自体が目的に捕らわれたものです。

 あらゆるものに目的があることを認め、余白=無駄を認めてほしいという考えではなく、人間の活動には目的に奉仕すること以上の意味がある要素があり、その要素こそに人間の自由があります。

 目的からはみ出した部分である自由と贅沢にこそ人間らしさが詰まっています。

我々の生活から目的が消えることはありません。問題はあらゆることが目的合理性に還元されてしまう事態です・

目的からはみ出した部分にある自由と贅沢にこそ人間らしさがあります。

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