生きることは頼ること 戸谷洋志 要約

本の要点、概要

 自己責任など、個々それぞれが、責任を他人に頼ることなく果たすべきという意見が多くところでみられるように、責任=他人に頼ることなく、自分で果たすものというイメージがあります。

 しかし、このような強い責任の持つ排他性が多く問題を引き起こしています。

 弱い責任という考え方に焦点を当てることで、社会を様々な人が介在する開かれた社会の実現が可能になります。

 弱い責任では、誰が責任を負うのかではなく、誰に責任を負うのかという視点を重視します。そのため、他人に頼ることで、責任を負う相手を助けることができれば、自分で全ての責任を果たさなくても、問題ありません。

 弱い責任であれば、責任を果たすことと他人に頼ることが両立できるようになります。

 私たちは誰もが傷つきやすく、弱い主体でしかありません。弱い主体が連携しながら、他者の傷つきやすさを想像し、気遣うことが弱い責任です。

 強い責任の問題点や弱い責任とは何か、なぜ今弱い責任が必要なのかなどを知ることができる本になっています。

この本や記事で分かること

・自己責任論や強い責任、弱い責任とは何か

・強い責任の問題点は何か

・弱い責任はどんな社会をもたらすのか

自己責任論とはどんなものか

 自分の起こしたことの責任は、自分で解決すべきで、他者を頼るべきではないとするのが自己責任論です。

 経済に対する政府の介入の抑制と社会保障の縮小を特徴とする新自由主義の広がりとともに、自己責任論もまた、社会に浸透していきました。

自分の起こしたことの責任は他人に頼らず、自分で解決すべきとするのが自己責任論です。

自己責任以外の責任の形はあるのか

 自己責任における責任のような「強い責任」だけではなく、他者を頼ることと矛盾しない「弱い責任」という考えかたをすることもできるはずです。

 すべてを自分で抱えてしまい、無理をし続け、キャパシティを超え、パンクすることのほうが無責任と考え、他者や社会を頼ることで責任を果たすことが「弱い責任」です。

 強い責任による自己責任論の弊害があきらかになりつつあるなかで、弱い責任について知ることはとても重要になっています。

自己責任論のように他人を頼らない「強い責任」だけでなく、他人に頼ることと矛盾しない「弱い責任」という考え方もできるはずです。

強い責任の問題点は何か

 公教育への投資の減少は、両親の経済格差がそのまま教育格差につながり、子供にはどうしようもない環境要因によって競争が左右される状態を生んでいます。

 まら、自己責任が問われると人は、その責任から逃れるために、誰かのせいにすることで、自分の責任を免れる他責が横行する社会になってしまいます。

 強い責任はその責任が誰のものかに、着目するものであり、排他的になってしまいます。刑事事件に対する刑罰のように強い責任が必要な場面ももちろんありますが、強い責任が暴走してしまうこともあります。

強い責任は責任が誰のものであるかに着目する、排他的なものです。

強い責任は他責の横行や両親の経済格差が子供の教育格差につながっています。

強い責任が暴走するとどんなことが起きるのか

 ナチスドイツは強い責任をもち、現状に甘んじることなく努力し、国家の発展に寄与すべきと考えていました。

 ユダヤ人の密告がユダヤ人の虐殺につながることを知りながらも多くの人がユダヤ人を密告していました。

 当時のナチス下のドイツでは、密告をしないこと=無責任と捉えられていたため、道徳に反しているかどうかという観点を持たずに多くの市民が密告を行っていました。

 密告することが道徳的に正しくないことは明らかです。強い責任という概念で自分の責任を果たすように迫られると責任を果たすことが正しいかを考えるのではなく、思考を停止してしまいます。

強い責任で自分の責任を果たすことを迫られると、責任を果たすことが正しいかを考えず、行動をとってしまいます。

強い責任の排他性は何をもたらすのか

 ナチスの密告を行った人々はナチスに加担した責任があるとするという考えかたもあります。

 私たちの行動には、中動態ともいわれるように、自分の意思で選んだわけではないが、強制されたわけでもないものも多くあります。

 強い責任では、責任を誰が責任を負うのかという点に注目するため、中動態の行動に対する責任を負わせることが正しいとは言えない場合も多くあります。

 もしも、中動態の行動に対し、責任を求められ、孤立してしまえば、社会は生きにくいものになってしまいます。

 強い責任は誰が責任を負うのかばかりを強調するため、責任のあるものとないものを排他的に分けて、孤立させてしまいます。この排他性も強い責任の問題点といえます。

私たちの行動には、意思でもなく、強制されたものでもないものも多くあります。

このような中動態の行動に対し、排他性の強い、強い責任を求められ、孤立すれば、社会は生きにくいものになってしまいます。

弱い責任とは何か

 強い責任では、誰が責任を負うか、つまり、責任の主体を重視していますが、弱い責任では誰に対して責任があるのかという点を重視します。

 例えば、駅で迷子の子供を助けるときに、必ずしも自分自身で子供の両親を探す必要はなく、駅員や警察に子供を届けることでも責任を果たすことができます。

 弱い責任は誰に対して責任があるか(この場合は迷子の子供)を重視しているため、他者を頼り、責任の主体を受け渡すことを許容するものです。

 弱い責任では、自分一人で無理をして、子供を守れなくなることこそが無責任と考えるため、人に頼ることを当たり前のものとしています。

弱い責任は責任をだれが負うか=責任に主体ではなく、誰に対して責任があるのかという点を重視するものです。

子供を保護するときには、責任の主体である人ではなく、子供に着目します。自身で最後まで子供を保護するのではなく、警察など他の人に子供を届けることでも責任を果たしたと考えます。

人に頼ることを当たり前とするのが弱い責任の特徴です。

なぜ、弱い責任が必要なのか

 自律性を人間の条件とする考えもありますが、他者に依存せず、他者からも依存されていない人はとても特殊な境遇にいるにすぎません。

 他者をケア、依存者の世話をする仕事は私たちが他者に依存しなければ、生きていけない以上、社会保障など外部資源によって助けることが不可欠となります。

 強い責任の下では、ケアする人々を社会保障で救う発想は出ませんが、どんな人でもケアが必要であり、ケアをする人への社会保障は社会が存続するための基礎といえます。

誰もが他者に依存している以上、他者をケアする仕事を外部資源で助けることは不可欠です。

弱い責任は何をもたらすのか

 私たち一人一人は、弱い主体でしかなく、弱い主体が連携しながら、他者の傷つきやすさを想像し、気遣うことが弱い責任です。

 弱い責任の下では、責任を果たすことと頼ることが、他者を頼ることと両立することが可能です。

 強い責任のもつ排他性から抜け出し、弱い責任によって、多様な人々の介在する社会的関係へと開くことが可能になっていきます。

弱い責任の下では、責任を果たすことと頼ることが、他者を頼ることと両立することが可能です。強い責任の排他性から抜け出すことが可能です。

本の要約

要約1

例えば幼い子供を一人で育てつつ、仕事や家事もすべて一人で担っている状態のときに体調に異変を感じたとします。

その時の選択肢は、無理をして今の生活を続けるか、親せきや会社、社会保障など他者を頼るという2つが存在します。

無理を続け、自分のキャパシティを超えるような生活を続け、パンクするほうが無責任であり、責任を引き受けることと他者を頼ることは矛盾することではないと考えることができます。

しかし、このような考えを認めず、自分の起こしたことの責任は自分で解決すべきであり、他者を頼ることは責任の放棄とみなすのが自己責任論です。

経済に対する政府の介入の抑制と社会保障の縮小を特徴とする新自由主義の広がりとともに、自己責任論もまた、社会に浸透していきました。

しかし、自己責任論における責任のような「強い責任」だけなく、他者を頼ることと矛盾しない「弱い責任」という考えかたをすることもできるはずです。

強い責任による自己責任論の弊害があきらかになりつつあるなかで、弱い責任について知ることはとても重要になっています。

要約2

強い責任による自己責任論は至ることで不具合を起こしたり、人々を疲弊させています。

公教育への投資の減少は、両親の経済格差がそのまま教育格差につながり、子供にはどうしようもない環境要因によって競争が左右される状態を生んでいます。

自己責任が問われると人は、その責任から逃れるために、誰かのせいにすることで、自分の責任を免れる他責が横行する社会になってしまいます。

強い責任はそれがだれの責任であるかという面に注目し、責任あるものとないものを排他的に区別するものです。

刑事事件のように強い責任が必要な場面も存在しており、強い責任も必要性があるものですが、強い責任は暴走を引き起こすものでもあります。

ナチスドイツは強い責任をもち、現状に甘んじることなく努力し、国家の発展に寄与すべきと考えていました。その考えは自分で思考することを放棄し、国家の暴走に加担するようになっていきます。

多くの人がユダヤ人を密告し、虐殺に加担する形となってしまいました。当時のナチス下のドイツでは、密告をしないこと=無責任と捉えられていたため、道徳に反しているかどうかという観点を持たずに多くの市民が密告を行っていました。

現在の感覚でいえば、密告することが道徳的に正しくないことは明らかです。しかし、自分の責任を果たせて迫られてしまえば、私たちは思考を停止し、その責任を果たすことが正しいかを考えることなく、道徳的に許されない行動にも加担してしまいます。

要約3

私たちは、常に意思を持って行動しているわけではありませんし、周囲に強制され受動的に行動しているわけでもありません。

私たちの行動には、中動態ともいわれるように、自分の意思で選んだわけではないが、強制されたわけでもないものも多くあります。

強い責任では、責任を誰が責任を負うのかという点に注目するため、中動態の行動に対する責任を負わせることが正しいとは言えない場合も多くあります。

強い責任は誰が責任を負うのかばかりを強調するため、責任のあるものとないものを排他的に分けて、孤立させてしまうものです。中動態の行動に対し、責任を求められ、孤立してしまえば、社会は生きにくいものになってしまいます。

強い責任では、誰が責任を負うか、つまり、責任の主体を重視していますが、弱い責任では誰に対して責任があるのかという点を重視します。

例えば、駅で迷子の子供を助けるときに、必ずしも自分自身で子供の両親を探す必要はありません。

駅員や警察に子供を届けることでも、子供を助けたことになります。責任を一人で全うできないときには、他者を頼る可能性を許容することが弱い責任の基本的な考え方です。

強い責任では、子供を見つけた人にのみ責任があり、責任の主体となった人は、他人に頼ることもなく自分一人で責任を果たすべき強い存在として捉えられます。

弱い責任では、子供を守ることが責任と考え、責任の主体である人は、その責任を他の人に渡したり、他の人を頼ることが許されます。

弱い責任では、自分一人で無理をして、子供を守れなくなる状況こそが無責任な状況であると考えため、人に頼ることは当たり前のこととなります。

要約4

自分のことを一人でこなせることが、一人前の人間の証であるとする自律性こそが、人間の条件と考えることもありますが、実際には他者に依存せず、他者からも依存されていない人はとても特殊な境遇にいるにすぎません。

他者をケア、依存者の世話をする仕事は私たちが他者に依存しなければ、生きていけない以上、社会保障など外部資源によって助けることが不可欠となります。

このような発想は強い責任の思想からは出てこないものです。

私たちが人間である以上、どんな人でもケアが必要となる部分があり、どのような社会でもケアが必要となります。

だからこそ、ケアをする人への社会保障は社会が存続するための基礎といえます。

私たちは誰もが傷つきやすく、弱い主体でしかありません。弱い主体が連携しながら、他者の傷つきやすさを想像し、気遣うことが弱い責任です。

私たちは誰かを頼らざるをえないものです。弱い責任のもとでは、責任を果たすことと頼ることが、他者を頼ることと両立することが可能です。

責任を私と他者の排他的な関係から多様な人々の介在する社会的関係へと開くことが可能になっていきます。

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