この記事で分かること
1. ICカードへの実装が難しい理由
耐量子暗号(PQC)は従来暗号と比べて鍵や署名データが巨大で、計算も非常に複雑です。メモリ・処理能力・電力が極めて乏しいICカードでは、タッチ決済などの制限時間内(約0.3秒)に処理を完了させることが困難でした。
2. TOPPANの克服アプローチ
独自に培った省メモリ技術により、暗号演算時のメモリ消費を大幅に最適化しました。世界標準の汎用OS(Java Card)上で高速処理を可能にし、接触・非接触の両通信に対応したICカード(PQC CARD® Dual)を実現しました。
3. 実用化に向けた課題
データ肥大化に伴う通信・システム側の負荷軽減や、社会インフラ全体の改修コストの高さが挙げられます。また、未知の脆弱性に即座に対応できる「暗号アジリティ」の確保や、物理攻撃対策の実装も必要です。
耐量子暗号のICカード化
TOPPANは、量子コンピュータの実用化によって従来の暗号(RSAやECCなど)が解読される脅威(Q-Day)を見据え、耐量子計算機暗号(PQC: Post-Quantum Cryptography)を搭載した次世代ICカード「PQC CARD®」シリーズの開発・展開を進めています。
クレジットカードや身分証明書に利用されている現行のICカードは、公開鍵暗号(RSAや楕円曲線暗号など)に依存しています。しかし、十分な規模の量子コンピュータが登場すると、これらの暗号は短時間で解読されるリスクがあります。
PQCへの移行が必要とされていますが、ICカードへの実装には大きな障壁がありましたが、接触・非接触の双方に対応したモデルを世界で初めて開発したことを発表しています。
前回は耐量子計算機暗号の概要に関する記事でしたが、今回は実際にICカード化する難しさとその実現方法に関する記事となります。
なぜICカードへの実装が難しいのか
耐量子暗号(PQC)をICカードに実装するのが難しい最大の理由は、「ICカードの極めて限られた計算リソース・電源・時間制限」に対して、「PQCが必要とするメモリ量・データサイズ・計算負荷が非常に大きい」という根本的なアンマッチがあるためです。
1. 鍵や署名のデータサイズが巨大(メモリ圧迫と通信遅延)
現行の暗号(ECCやRSA)に比べ、PQC(主に格子暗号)は扱わなければならないデータサイズが桁違いに大きくなります。
| 暗号方式 | 公開鍵サイズ | 署名/暗号文サイズ | ICカードへの影響 |
| 現行(ECC 256bit) | 約 64 バイト | 約 64 バイト | 非常に軽快 |
| 現行(RSA 2048bit) | 約 256 バイト | 約 256 バイト | 標準的 |
| PQC(ML-DSA / 署名) | 約 1,312 バイト | 約 2,420 バイト | データ量が約10〜40倍に肥大化 |
- メモリ不足: ICカードの超小型チップに搭載されているRAM(作業用メモリ)はわずか数KB〜十数KBしかありません。巨大な鍵や署名データを保持・処理するだけでメモリが溢れてしまいます。
- 通信時間の増大: 非接触(タッチ)通信のデータ転送速度速度には限界があるため、送信データが増えるだけで通信時間が延びてしまいます。
2. 非接触(タッチ)動作における「時間」と「電力」の制限
マイナンバーカードや交通系IC、タッチ決済などで使われる「非接触通信」では、さらに厳しい制約が加わります。
- バッテリーレス(電力を電波から回収): 非接触カードは内部に電池を持たず、カードリーダーから発せられる電波を利用して動作(発電)します。そのため、利用できる電力が極めて微小で不安定です。
- 「約0.3秒」の壁: タッチ決済や改札などは、ユーザーが不快感やエラーを感じないよう0.3〜0.5秒以内に処理を終える必要があります。PQCの重い多項式計算(NTT:数論変換など)をこの一瞬で処理するのは至難の業です。
3. 複雑な多項式演算(NTTなど)の計算負荷
格子暗号では、何百次元もの多項式同士の掛け算など、高度な数学演算が必要です。
これらを高速化するために「NTT(Number Theoretic Transform: 数論変換)」という特殊なアルゴリズムが使われますが、これを汎用のICカード用CPU(8bit〜32bitの省電力プロセッサ)で実行しようとすると、計算ステップ数が多くなり処理が滞ってしまいます。
4. サイドチャネル攻撃(物理攻撃)への対策コスト
ICカードは「敵(攻撃者)の手元に渡るデバイス」であるため、暗号計算中の消費電力の変動(DPA)や漏れ出る電磁波を観測して秘密鍵を盗み出す「サイドチャネル攻撃」対策が必須です。
- 攻撃を防ぐために計算データをランダムに化けさせる「マスキング処理」などを実装します。
- しかし、ただでさえ大きいPQCの計算処理にマスキングを施すと、計算量や必要メモリがさらに数倍〜十数倍に跳ね上がり、ICカードのリソース上限を簡単に突破してしまいます。

耐量子暗号は従来より鍵や署名データが巨大で計算も複雑なためです。メモリや処理能力、電力が極めて乏しいICカードでは、タッチ決済等の制限時間内(約0.3秒)に巨大な処理を完了させることが非常に困難だからです。
TOPPANはどう克服しようとしているのか
TOPPAN(旧・凸版印刷)は、ICカードの「極小のメモリ(RAM)」「乏しい電力」「非接触通信の厳しい時間制限(約0.3秒)」というハードルを、ソフトウェア(OS)層の最適化と独自のアーキテクチャ設計によって克服しています。
1. 独自ICカードOSによる「超・メモリ最適化」
PQC(格子暗号)は従来暗号の10〜40倍の鍵データや複雑な多項式演算を必要とするため、通常はICカードのRAM(数KB程度)をすぐに使い果たしてしまいます。
- メモリバッファの徹底的な再利用: 暗号演算の途中で発生する一時データを小分けにし、使い終わったメモリ領域を即座に次の計算へ再割り当てするメモリ制御ロジックを自社OS(Java Card OSベース)に組み込みました。
- 汎用ICチップでの動作実現: 高価な特別仕様ハードウェアに頼らず、既存の汎用ICチップ上でもPQCが動作する計算効率を達成しました。
2. 通信制御と暗号演算の「パイプライン処理(並列化)」
タッチ決済やゲートの通過で求められる「0.3〜0.5秒以内」の処理を達成するため、非接触通信と暗号処理を分離・同期させる制御を行っています。
- データ分割送信と並行処理: 巨大なPQC鍵・署名データをカードリーダーとやり取りする際、通信と演算を段階的に並行して進める(パイプライン化する)ことで、ユーザーが不快感を感じないレスポンス速度を維持しています。
3. 「ハイブリッド方式」と「Java Card™」互換性の保持
移行期における実用性とシステム側のコスト負担を抑えるため、互換性と安全性を両立させています。
- 現行暗号+PQCの同居: RSAや楕円曲線暗号(ECC)と、PQC(NIST標準の ML-KEM や ML-DSA)を同一カード内に同時搭載。
- アプリ層への影響ゼロ: 世界標準のJava Card OS上で暗号ライブラリとしてカプセル化しているため、既存の社員証や決済アプリのプログラムコードを書き直すことなく、暗号エンジン部のみを耐量子仕様へアップデートできます。
4. 軽量化されたサイドチャネル攻撃(DPA)対策
ICカードは攻撃者の手に渡るため、暗号計算中の電力変化から鍵を盗み出す「電力解析攻撃(DPA)」への対策が必須です。
- 通常、DPA対策(マスキング等)を施すと計算量が跳ね上がりますが、TOPPANはPQC特有の数学構造に合わせた軽量な耐性アルゴリズムを開発し、セキュリティを維持しつつ処理負荷の増大を最小限に抑えています。
TOPPANは「専用の巨大チップを載せる(コスト増)」のではなく、「高効率な自社OSとアルゴリズムの工夫で汎用ICチップの限界性能を引き出す」というアプローチで、世界初の接触・非接触(デュアルインターフェイス)両対応の耐量子ICカードを実現しました。

独自の省メモリ技術により暗号演算でのメモリ消費を最適化し、汎用OS(Java Card)上で巨大なPQC演算の高速処理を実現しました。これにより、制限されたリソース内での接触・非接触動作を克服しています。
実用化に向けての課題はなにか
耐量子暗号(PQC)の実用化・社会実装に向けた課題は、アルゴリズム開発の段階を過ぎ、社会インフラ全体を安全かつ円滑に置き換える「運用・コスト・安全性の検証」のフェーズへ移行しています。
主な課題は以下の4点に集約されます。
| 課題領域 | 具体的な内容 |
| 1. 既存システムの棚卸しと切り替えコスト | 巨大なITシステムにおいて「どの場所にどんな暗号が使われているか(クリプトインベントリ)」の正確な把握が困難。金融機関や行政基盤などの全面改修には多大な予算と年単位の時間が必要。 |
| 2. データ肥大化による通信・サーバー負荷 | 鍵や署名データが従来の10〜40倍に肥大化するため、Webサーバーやクラウド、ネットワーク機器の通信帯域・ストレージが圧迫され、システム全体の処理性能が低下するリスクがある。 |
| 3. 暗号アジリティ(柔軟性)の確保 | 標準化されたPQCアルゴリズムであっても、将来的に新たな解読法や脆弱性が見つかるリスクはある。システムを止めずに別の暗号へ即座に切り替えられる設計(暗号アジリティ)が不可欠。 |
| 4. 物理デバイスのサイドチャネル攻撃対策 | ICカードやIoT機器など攻撃者の手に渡るデバイスにおいて、処理中の電力消費や電磁波から鍵を分析される物理攻撃(サイドチャネル攻撃)への対策実装と、国際認証の取得。 |
既存システムとの互換性を保つため、当面は「現行暗号(RSA/ECC)+ PQC」を同時に使うハイブリッド方式が採用されます。しかし、処理が二重になることでシステムの複雑化や遅延が発生するという新たなトレードオフが生じます。

データサイズの肥大化による通信・システムへの負荷や、既存インフラ全体の改修コストの高さが挙げられます。また、未知の脆弱性に即座に対応できる暗号アジリティの確保や、物理攻撃対策の実装も課題です。


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